『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『フォレスト・ガンプ/一期一会』から、『マリアンヌ』『マーウェン』まで、数々の優れた作品を残す名匠ロバート・ゼメキス。その最新作がリチャード・マグワイアのグラフィック・ノベルを映画化した『HERE 時を越えて』だ。
今回、長くゼメキス作品を鑑賞し続けてきた映画研究者・評論家の南波克行に本作の魅力を綴ってもらった。それは本作だけでなく、過去に南波がゼメキス作品に触れてきた記憶の数々の堆積にもなっていくだろう。
※本記事には映画の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
INDEX
壮大な時空の堆積が形作る、ちっぽけな私
ロバート・ゼメキス監督が描く、時間軸のスケールはケタ外れだ。何しろ『HERE 時を越えて』は、最初から最後まで同じ場所にカメラを置いたまま、地球の起源から現代までを見せるのだ。一方、語られる物語はとても小さくて、ある家族の物語。それも大家族の一代サーガといった壮大なドラマではなく、結婚や出産、記念日のお祝いや、子どもの成長、両親との死別など、誰にでも訪れる生活の一断面ばかりだ。

『コンタクト』(1997)の冒頭でも、実に宇宙の果てまでの壮大な時空間が、一気にワンショットで示され、それがすべてヒロインの瞳の中へと収斂する。この驚くべき導入が伝えるのは、天文学的な時空の中ではちっぽけな「私」であっても、数十億年、数億光年もの時空の堆積が、「私」を形作っているということだ。だからこそその作品は時空を越えて、運命を切り拓く。
ゼメキス最大の人気作、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)では、未来の自分が過去を救い、救った過去が現在の自分を救う。そして救った過去と現在の先には、真っ白の未来が待っている。『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』(1990)の最後に、ドク(クリストファー・ロイド)がマーティ(マイケル・J・フォックス)に贈る、「未来はまだ白紙だ」という言葉がすべてを表している。そして「それは自分で作るのだ」と。