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トーキョーの街の「感触の濃度」を体験できる
こうした不器用さは、従来の演劇的リアリズムとは明らかに異なる質感を持っているだろう。通常の演劇なら、失敗や間違いは演出上の意図として整理され、意味づけされるからだ。しかし『トーキョー・グッドモーニング』においては、それらは放置され、いずれトーキョーの空気の中へと消えていく。観客もまた、そこに何か意味を与えようとしては裏切られ、ただ「なにかが起こった」という実感にのみ向き合うことになる。人は時に川になり、時にクジラになる。重要そうな局面が常にサラサラと流れていく様子は、せせらぐ水のごとし。それにしても、本作は至るところで「水」のモチーフが繰り返されるのだから、あながち間違ってはいない。定型にとどまらないフルイドな感覚は、目の前でどんなことが繰り広げられようが、ずっと通底している。

そういった物語の歪み、会話の逸脱、時間の歪曲といったものが私たちの解釈を拒んでいく中で、ただひとつ強烈な印象を残すものがあって、それは「感触」と形容すればよいのだろうか。さまざまなものが織りなすズレの中でひときわ観客を刺激するのは、役者の発する声の輪郭であり、大量に舞い落ちる紙のひらひらとした重さであり、楽器から漏れだす熱い音の粒であり、水のパシャっとしたテクスチャである――つまり、「感触」としか言いようのないものが、ズレとズレの間から歪な形で迫ってくるのだ。

『トーキョー・グッドモーニング』は、ズレが意味を破壊することで、俳優の身体の圧力やモノの存在感が、感触そのものとして私たちの肌に流れこんでくる作品なのである。そう、それはトーキョーの街の、あの何とも言えないカタチの空気を身体で「浴びる」感覚、つまり舞台の材質のザラつき、人の動作の速さと遅さの奇妙な緩急、言葉が言葉になる寸前の「声」の輪郭といったものを、「感触の濃度」として体験できるパフォーマンスなのだ。