『国際芸術祭「あいち2025」』が2025年9月13日(土)に開幕した。11月30日(日)までの79日間にわたり、愛知芸術文化センター(名古屋市)や愛知県陶磁美術館(瀬戸市)、瀬戸市のまちなかを会場に、現代美術展とパフォーミングアーツの公演、ラーニングプログラムによるさまざまな体験の機会を創出。多種多様な表現との出会いを通して、世界各地の歴史や文化、慣習や価値観に、一人ひとりが思考や想像をめぐらせるための場を提示している。
本記事では、現地を訪れて体感した『あいち2025』の特色や、いずれもオープニングのタイミングで行われたパフォーミングアーツ作品などについて紹介する。
世界各国から参加するアーティストらが集ったオープニングセレモニーや、ニューヨークとパレスチナを拠点に映像と音楽によるインスタレーション作品を手がけるアーティスト、バゼル・アッバスへの貴重なインタビュー、彼とパレスチナから来日した仲間がナイトクラブで行ったパフォーマンスなど、開幕直前 / 直後から現地は熱気に包まれた。
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名古屋の文化の成熟度、瀬戸の地域性を感じる芸術祭
本芸術祭で、現代美術展や多くのパフォーミングアーツの公演が行われる、愛知芸術文化センター、通称「芸文(げいぶん)」は、名古屋を代表する繁華街の栄に位置する。東京から名古屋までは、東海道新幹線のぞみ号で約1時間半、大阪や京都からなら1時間もかからずに到着でき、地下鉄東山線に乗り換えてたった2駅というアクセスの良さだ。

実は筆者、名古屋を訪れるのは人生で3回目、芸文も本芸術祭も念願の初訪問だった。
栄駅の改札を出て、地下街を通り芸文に向かう途中、地上までの吹き抜け構造になった立体型の公園「オアシス21」と、見上げた先に広がるガラスの大屋根「水の宇宙船」のスケール感に、まず圧倒された。大都市のど真ん中に巨大な広場があることはもちろん、そこに集う多くの市民が思い思いの時間を楽しんでいる様子も印象的だった。

一方、『あいち2025』の会場でもある愛知県陶磁美術館が位置する瀬戸市は、名古屋駅から電車で1時間弱の距離。「せともの」という言葉が象徴するように、歴史ある焼き物の産地「日本六古窯」の一つとして、世界的に知られる地域だ。
起伏に富む広大な同館の敷地には、「本館」や「デザイン あいち」、来館者が作陶を楽しめる「つくるとこ 陶芸館」などが点在し、豊かな自然の中で芸術と歴史に親しめる。瀬戸市のまちなかで行われる現代美術展と合わせ、地域全体をゆったりと散策したくなる展示構成となっている。


さまざまな人が行き交う大都市の多面性と、愛知という地域に根ざした伝統産業の歴史、そこで生きてきた人々の暮らしや文化が混ざりあうなか、世界の「今」を映した多彩な作品に出会える本芸術祭は、非常にユニークな場だろう。訪れてみて、過去に賛否を巻き起こしながらも、存続への熱い要望と期待や、海外からの高い評価を得てきた理由、愛知県という都市の文化の成熟度を感じずにはいられなかった。
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30秒近くの拍手と歓声が起こったオープニングセレモニー
開幕に際し、芸術祭はステートメントを公表した。会場内はもちろん、公式サイトやSNSにも掲載されているが、まずはここに全文を引用して紹介したい。
本芸術祭が何を大切にしているのか、アーティストや彼らの作品が、どのように響きあい形作られた場なのか、ということが端的に理解できるだろう。そして、各会場をめぐる際のヒントにもなるはずだ。
国際芸術祭「あいち2025」は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)をふまえ、すべての先住民族および先住民のアイデンティティをもつ人々の歴史、文化、権利、そして尊厳を尊重します。
また、民族や国籍、人種、皮膚の色、血統や家柄、ジェンダー、セクシャリティ、障がい、疾病、年齢、宗教など、属性を理由として差別する排他的言動や、その根幹にある優生思想(生きるに値しない命があるというあらゆる考え方)を許容せず、この芸術祭が、分断を超えた未来につながる新たな視点や可能性を見出す機会となることを目指します。
取材のために滞在した2日間、筆者は印象的な瞬間に何度も遭遇したが、そのひとつがオープニングセレモニーでのフール・アル・カシミ芸術監督の挨拶だ。開幕前日、多くの参加アーティストとキュレーターらが、愛知県芸術劇場 大ホールに一堂に会した場でのアル・カシミ監督の言葉を、一部抜粋 / 編集して紹介する。
アル・カシミ:「灰と薔薇のあいまに」という本芸術祭のテーマを心に持ちつつ、非常にエモーショナルな気持ちで準備を進めてきました。私が生まれた頃から占領状態にあるパレスチナでは、長年、そしていまこの瞬間も、多くの人々が虐殺されています。それが非常に苦しいです。イラク、シリア、そのほかの多くの国でも紛争や戦争が続いています。
今は全てが崩れ果てていたとしても、いずれ「灰と薔薇のあいまに」の時間が訪れます。そのとき、壊れたもの全てが再び蘇り、生まれ変わることは可能でしょう。この言葉の意味は非常に大きく、重いと感じています。
芸術と文化には、誰もが声を高く上げられる安全な場所をつくる、という重要な役割があると思います。アーティストらの自己表現という面もありますが、同時に、声を上げられない人たちのために果たしている役割もあるでしょう。我々は屋上から大きな声でメッセージを叫ぶことができます。しかし結局のところ、パレスチナが自由になるまでは、我々も自由にはなれないのです。
そう話し終えるやいなや、万来の拍手と賛同を示す歓声が30秒近く続いた。
「灰と薔薇のあいまに」とは、シリアの詩人アドニス(1930年~)が、1967年の第3次中東戦争後に発表した一節だ。その詳細やテーマに用いた経緯などは、フール・アル・カシミ芸術監督×中村茜キュレーター対談記事でお読みいただきたい。
フール・アル・カシミ芸術監督は、ディレクターを務めるシャルジャ美術財団で、アラブや世界中のアートをつなぐ仕事に尽力し続けてきた人物だ。
アブダビやドバイなど、7つの首長国で構成されるアラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャ首長国で、2023年に開催された芸術祭『シャルジャ・ビエンナーレ』ではキュレーターを務めてもいる。そのときアル・カシミが試みた、美術とパフォーミングアーツのオーバーラップが、本芸術祭でさらに深化したことが、会期中に予定されている9つのパフォーミングアーツのプログラムからも伝わってくる。
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20年ぶりの来日公演、ダンスカンパニー Black Graceによる圧巻の『Paradise Rumour』
今回が日本初演となった『Paradise Rumour(パラダイス・ルーモア)』(公演終了)。200席に満たないコンパクトな愛知県芸術劇場小ホールで目の当たりにした彼らのパフォーマンスは、まさに圧巻の一言だった。
ダンスカンパニーBlack Graceによる本作は、『シャルジャ・ビエンナーレ』(2023年)のコミッション作品として、キュレーターのアル・カシミと、主宰するニール・イェレミアとの対話から生まれた。人々が太平洋の島々に抱く楽園(パラダイス)のイメージの裏にある、差別や偏見にさらされた移民コミュニティの歴史や、彼らが辿ってきた時間を、「希望と抵抗」「悲しみと受容」「抑圧と解放」「信仰と危機」を象徴するダンサーが、躍動感溢れる力強い動きで表現する。
オープニングで雲海のようなスモークに包まれると、瞬く間に物語の世界へ連れて行かれるような感覚を覚えた。壇上に横たわる男性の背中に、痛々しいほどいくつもの矢が刺さっていることに気づいて息をのむ。

ビートを刻む明るい音楽で場面が転換していっても、聞こえてくるナレーションでは、1800年代にやってきた英国の宣教師たちが、サモアの伝統宗教を破壊していった歴史や、1900年代半ばに起こった移民をめぐる歴史が語られ、パフォーマンスの一つひとつにさまざまな想像と感情がめぐっていった。


クライマックス、鬼気迫るダンサーらの姿と息遣い、静と動の対比に、今も終わっていないコロニアリズム(※)の歴史を、アジアの島国に暮らす現代の私たちはどう考えていくのか、切実に問われている感覚を覚えた。
※植民地主義。国境外の領域を植民地として獲得し支配する政策活動と、それを正当化して推し進める思考で、大航海時代から20世紀後半にかけて、ヨーロッパ、アジアの強国が特に盛んに行った。

Black Graceは、サモア系ニュージーランド人の振付家イェレミアが、1995年に設立。先住民のマオリなどにルーツを持つメンバーで構成され、オークランドを拠点にコンテンポラリーダンスの新たな可能性を切り拓き、国際的な注目を集めている。
彼らは作品を通して、抑圧的な男性性や植民地主義の暴力、失われた文化史など、苦難に満ちたテーマを取り扱ってきている。今回、20年ぶりの来日公演が実現し、この『Paradise Rumour』を目の前で体感できた経験は、非常に意義深かった。
余談だが、マオリといえば、ラグビー好きなら、ニュージーランド代表オールブラックスと、彼らが国際試合前に行うハカを連想するだろう。マオリの人々にとって非常に重要な伝統舞踊だが、そもそもなぜ行われるのか、どんな意味合いがあるのか、理解している人は多くないかもしれない。
しかし、なんとなくでも気になる瞬間があったなら、その理由や背景にあるストーリーを、ほんの少し踏み込んで調べてみてほしい。本芸術祭にも、ありとあらゆるところにそんな出会いのきっかけがあるだろう。思いがけない気づきから、点と点がつながり、一瞬にして世界が違って見えてくる。そんな劇的な体験ができるのも、芸術の魅力だと思うのだ。
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パレスチナ拠点のアーティストによる「抵抗」のインスタレーション作品

音楽や映像、文章、インスタレーションやパフォーマンスなど、さまざまな表現で精力的に作品を発表している、バゼル・アッバスとルアン・アブ゠ラーメは、共にパレスチナを拠点に活動するアーティストコレクティブだ。
愛知芸術文化センター 8Fに展示されている映像インスタレーション『忘却が唇を奪わぬよう:私たちを震わせる響きだけが』は、過去10年にわたって継続するプロジェクトの作品だ。インターネット上に投稿された動画を収集した映像のサンプリング。さらに、今、消し去られ続ける危機にあるパレスチナの風景を新たに撮影し、本芸術祭のために再構成したものだ。
薄暗く奥行きのある展示室では、パレスチナの分離壁を彷彿とさせる巨大な壁面や、床に置かれたコンクリートのオブジェクト、スチールパネルに、さまざまな場で歌い踊る人々の姿が断続的に映し出されていく。一つひとつの踊りやステップ、詩に込められているのは、剥奪や強制移住など、そこに暮らしてきた人々を抹消しようとするものへの「抵抗」だ。

会場でインタビューに応じてくれたバゼルは作品について、「その抵抗への敬意を示したものであり、それが本作の核だ」と語る。また、作品を通して描いたのは「パレスチナをはじめとする地域の人々だけではなく、世界中で、意図せず移動を余儀なくされてしまった人たち、人間の抵抗、コミュニティにおける抵抗、そしてレジリエンスである」とも話してくれた。
今日本に暮らす私たちは、明日をも知れない命の危機が迫っている状況ではないかもしれない。戦禍の人々の深刻さや切実さと意味合いは異なるが、例えば、日々の自由を制限されていたり、移動がままならなかったり、社会やコミュニティから疎外されて孤立したり、孤独に過ごしていたりする人々が、日々対峙している現実とも、どこかしら重なるように思える。
そうバゼルに投げかけると、「パレスチナの状態は、世界中の人間が共鳴できるものでしょう。私たちにとってこれはまさに『人間の条件』であり、非常にシンプルなことです。また、ケアをする、配慮をする、そうした行動が、コミュニティを作り出すのです」とも答えてくれた。

本芸術祭では、西欧諸国による植民地支配の歴史、資本主義や帝国主義の歴史を扱った作品がいくつも観られる。アートワールドの中心も長らくアメリカを含む西欧諸国に置かれ、バゼル自身もロンドンやニューヨークで学んできたが、「これまでは、こちらから向こうへ一方的に対応しなければいけない、と、どこか条件付けられていたように思います。しかし今後は変えていくことが大切」と述べた。
そして日本の観客にむけ、「この芸術祭への招待を受けたとき、もちろん行きます、と、すぐにお返事しました。日本はアジアの東に位置していますが、パレスチナはアジアの西にあります。今後も自分の作品をお見せしていきたいですし、関係性を構築し、互いの歴史を学びあい、共に進んでいくことが大切だと考えています」と語ってくれた。
パフォーミングアーツプログラムのキュレーションを担当した中村茜は、特に本作を「今この芸術祭で一人でも多くの観客に観てほしい」と話していた。日本で日々報道されているパレスチナの姿を見ると、戦場のイメージしか持てないかもしれない。しかし、私たちと同じように暮らし、創作活動を続けているアーティストもいる。そんな当たり前のことを、本作からほんの少しでも感じてもらえたら、と思う。なお、映像や音楽に重なる英語とアラビア文字のテキストは、展示室に日本語訳の資料が置かれている。ぜひじっくりと目を通してほしい。