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池松壮亮が語る、映画の芸術性と余白
─池松さん演じる青葉一平にだけ、相棒の警察犬が着ぐるみのおじさんの姿で見えてしまうというユニークな設定に始まり、カオスがさらなるカオスを呼び込む本作。その物語は、今SNSを中心に盛り上がりを見せている「考察文化」に対して、どこか軽やかに背を向けているようにも感じられます。こうした、解釈の余白がたっぷりと残された作品に臨むとき、演じる側としてはどのような意識やアプローチを持たれるのでしょうか?
池松:その作品によっても異なるものだとは思いますが、余白をそのまま余白として大切にすること、そして台本に信頼を置いて楽しむことは俳優にとって、とても重要なことだとは意識しています。映画を観る喜びってあらすじだけでは決してないですよね。人が生きているという、寛大な豊かさみたいなもの、映画にはそれを捉える力があると思っています。

池松:今回の撮影では、俳優という枠におさまらない、表現者という気質に近いオダギリさんのこれまで培われてきた感性を、俳優陣たちが様々な解釈を持ち寄って形にしていく。みんなで可笑しな冒険を楽しむような感覚で演じていたように思います。
─俳優陣たちの解釈が一つではなく、あらゆる解釈が許されながら演じるというのは、映画に豊かさをもたらしてくれそうですね。
池松:そうですね。ドラマではもう少しストーリーラインが重視される局面が多かったですが、映画では見終わった後に、その作品そのものの輪郭や、根底にある動機、小さな願いのようなものが浮かび上がってくるような作りになっていると思います。
─池松さんは、大学時代に映画制作を学ばれ、大の映画好きであることを公言されています。観る側としても、余白がある映画に惹かれますか?
池松:もちろん大好きです。余白にも様々あって。今作のもつ余白と一般的に言われる映画の余白とは少し違っているようにも思います。
例えば、絵画を鑑賞する際に、この画家はどういった時代背景で何を捉えようとしてこの絵を描いたのだろうかと鑑賞者側がそこに想いを馳せるじゃないですか。それと同じように、映画にも広い芸術性があると思っています。額面にあるものの背景とその奥行きを見ることに芸術性は成り立つものだと思います。
─先ほど、ドラマはストーリーラインを重視することが多いとおっしゃっていましたが、今回このシリーズでドラマと映画、両方演じられて、その二つの違いを意識することはありましたか?
池松:映画ならではの遊びが出来た部分はたくさんあると思いますが、そこはあまり意識していません。映画を作り上げるための「設計図」となる脚本をもとに、一平を楽しんで演じられればと思っていました。あの「設計図」なので、どうしたってドラマとは別次元に行きますよね(笑)。
