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ここではないどこかへーー貧者たちの理想郷を探った「労働者三部作」
だが、『枯れ葉』は自身が過去に撮った「労働者三部作」の続きであると発言していると聞き、カウリスマキが並々ならぬ覚悟で再び映画を作り上げたのだと思い知らされた。気まぐれでも大御所の道楽でもない。1人の映画作家が自身の過去の作品と向き合いながら、いま、自分が作るべきものは何なのか真剣に向き合ったからこそ生み出された作品であると感じられた。カウリスマキの「労働者三部作」はそのフィルモグラフィーにおいて、非常に重要な意味を持った作品群だからである。
アキ・カウリスマキの「労働者三部作」は英語圏では「プロレタリアート・トリロジー」と言われるもので、『パラダイスの夕暮れ』(1986年)、『真夜中の虹』(1988年)、『マッチ工場の少女』(1990年)の3作を指す。1957年生まれの彼が20代後半から30代前半で撮ったキャリア初期の代表作であり、世界的な評価を決定づけたものだ。そして、最新作『枯れ葉』にも通じる彼のスタイルはこのとき確立されたと言っていいだろう。
それらの作品においてまず重要なのは、はじめに述べたとおり登場人物が市井の人びと、それもほとんどがブルーカラーであることだ。カウリスマキの映画では、80分に満たないこともしばしばの短い上映時間のなかで具体的な労働の様子がかなりしっかりと映し出される。描かれる人物たちがどのようにして日々の生活の糧を得ているのかが明かされるのだ。そこには労働者たちの厳しい現実がある。
しかしそうした労働者たちのリアリティーを、形式的には「リアルに」見せないのがカウリスマキ映画の面白さだ。そぎ落とされた台詞とキャラクターたちのシンプルなアクション、絵画のように切り取られる静的な画面、優美な色彩と大胆な編集。古いロックンロールと歌謡曲が立ち上げるノスタルジックな叙情。そして、独特の間合いからこぼれ落ちるオフビートな笑い。きわめて統制された演出は彼が敬愛するクラシック映画からの影響によるもので、たとえば無表情の人物たちのやり取りが醸すおかしさはバスター・キートンの作品から受け継いだものだ(デッドパンユーモアと呼ばれる)。構成の簡潔さはフランスの映画監督ロベール・ブレッソンから。他にも好きな映画監督として、チャールズ・チャップリン、ジャック・タチ、フランク・キャプラ、そして小津安二郎といった名前を挙げている。あるいはノワールなど、ジャンル映画の古典を率直に踏襲し、犯罪やメロドラマ的な要素が多く現れるのも特徴だ。フィンランドで映画狂として育った1人の若者が、労働者たちの失意や希望を自らが愛するクラシック映画の世界に持ち込んだのが「労働者三部作」だった。

具体的に見ていこう。長編第3作にして「労働者三部作」の第1作である『パラダイスの夕暮れ』は、ゴミ収集作業員の男ニカンデルとスーパーマーケットのレジ係の女イロナのロマンス。演じるのはその後のカウリスマキ作品でも常連であり続けたマッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンだ。いま観ても隅々まで行き届いた画面作りやじわりと染みわたってくる味わい深さはカウリスマキ映画以外の何物でもなく、その無二のスタイルがすでにできあがっていることに驚かされる。
それは登場人物たちについても言える。惚れた女性に振り回されるニカンデルの不器用さを見ているといたたまれなくなってくるが、それ以上にイロナの無軌道さにハラハラさせられる。彼女は生活苦のせいで自由のない人生に苛立っており、どこか投げやりに生きているように見える。だからお互いに惹かれ合いながらも、すれ違ってしまうのだ。貧しい暮らしのなかで出会った2人の、うまくいかない恋。そんな、無骨な人間たちの小さな物語をカウリスマキはこのときから捕まえようとしていた。

つづく『真夜中の虹』はカウリスマキの映画のなかでもとくにノワール色の強い1本だ。炭鉱の閉鎖で失職した男カスリネンが、キャデラックに乗って南を目指して旅に出る。途中で強盗に襲われ無一文になるも、シングルマザーのイルメリに出会い惹かれていく。だがあるとき、強盗と再会すると捕まえようとするが逆に警察に連行され投獄、刑務所で出会った仲間と脱獄を試みる……という、波乱万丈なストーリーがテンポよく展開する。
失業によって父親が自殺してしまうところから始まり、カリスネンは寄る辺のない流れ者となる。設定は非常にハードだが、追いつめられた状況によってカスリネンは娯楽映画の主人公として生まれ直したと見ることもできる。男は愛する女と出会い、車を走らせて違う場所へと旅立とうとするのだ。

『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』はどちらも、ある男女が「ここではないどこか」を目指すところで終わる。それはカウリスマキが好んでいた犯罪映画の定番の終幕であると同時に、苦境にある労働者たちの現実世界からの「脱出」でもあった。『真夜中の虹』のエンディングで流れる”虹の彼方へ”に象徴されるように、より良く生きられる場所が海の向こうのどこかにあるはず……という夢想がそこには存在していたのだ。
やけっぱちだがそれでもみずみずしいロマンティシズムを携えていたそれら2作に対し、「労働者三部作」の3作目である『マッチ工場の少女』はもっと厳格に労働者の逃げ場のなさを見据えた作品だ。驚くべきは70分に満たない上映時間だろう。その、鋭利なまでの簡潔さ。にもかかわらず冒頭、主人公の女性イリスが働く工場でマッチがオートメーションによって生産される過程が素っ気なく延々と映し出される。労働者は「生産」の過程に組みこまれた歯車の1つでしかない、とずばりと言ってのけるように。
イリスは働かない母親と継父に代わって一家の生計を担っており、ちょっとした息抜きすら許されない日々を送っている。あるとき衝動的に派手なドレスを購入しディスコに行き、そこで出会った金持ちの男と一夜をともにする。が、彼にとって自分が遊びの相手に過ぎなかったことを知ると、イリスは自分を粗末に扱ってきた者たちへの復讐を始めるのだった。

本作の前に発表した『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989年)で発揮していた鷹揚な笑いとは対照的に、イリスを演じるカティ・オウティネンの終始不機嫌な顔つきに導かれるようにして物語は救いのないところへ向かっていく。カウリスマキのフィルモグラフィーのなかでも最も絶望的な1本と言える本作は、極限までそぎ落とした演出による容赦のなさで初期の代表作となった。しかし、この悲劇的な作品についてカウリスマキ本人は以下のように語っている。
ラストは暗いわけではない。イリスは社会から追放されて運が良かったんだ。何故ならそこはこれまで彼女が送ってきた人生よりはマシだからだ。
『アキ・カウリスマキ』遠山純生編 エスクァイアマガジンジャパン刊より引用
何ともシニカルな物言いのようだが、そこにカウリスマキが当時抱えていた純粋な怒りをかぎ取れる。富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなるこの資本主義社会のなかで、敗残者が生きる場所はないのだと。社会から追放されることでイリスもまた、「ここではないどこか」へ逃げ出していたのだ。「労働者三部作」はそんな風にして、悲惨な場所からの逃走を映画世界のなかに求めたものだった。
それから30年以上経って発表された『枯れ葉』がその続きだとカウリスマキが宣言しているのは、作家としての原点に回帰する想いがあるのだろう。実際、同作はまるで『パラダイスの夕暮れ』を反復するかのように、ブルーカラーの男女が出会い、惹かれ合っていくシンプルな人間ドラマである。