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鏡の前のシーンで示される、本作の魅惑のヒント
ミステリーの提示と宙吊り。エモーションの蓄積と不発。異化効果の林立を通じて、一体全体、この映画は何を語ろうとしているのだろうか。あるいは、語ろうとしていないのだろうか。
こうした感覚は、映画が進んでいくにつれ、より一層のメタファーや異化効果の蓄積を通じて更に高まっていくことになるが、中盤のあるシーンで、この映画についてのメタ的な理解を促すように、珍しく言語的ヒントが示される。大きな鏡の前で、エリザベスがグレイシーに「エリザベスになるための」メイクの方法を教わっているシーンだ(*)。
*鏡は、カメラとスクリーン、つまり、見る / 見られるという根源的な関係性を惹起するモチーフとして、古くから映画批評の中で特別な意味を見出されてきた存在でもある。
ここで二人は、それまでかろうじて保たれてきた「エリザベスがグレイシーを見透かす」という構造の内部から決定的な一歩を踏み出していく。同じ鏡を覗き込む=カメラを覗き込むショットの中で、化粧というそれ自体が象徴的なプロセスを経ながらエリザベスがグレイシーに「なる」方法を手にすることで、二人はともに二人を見透かし、そしてまた、観客から平等に見透かされる存在として表象されているのだ。このショットに至って映画は、エリザベスの目という、それまで辛うじて私たち観客の目に重ね合わせられていた物語の著述者としての視点の絶対性を失効させ、グレイシーの視線と同化していく。そしてエリザベスは、自らの視線の先にあると想定されてきた真実の絶対性を、他ならぬ自らの手で侵食していくのである。
メイクの指南を受けながらエリザベスは、彼女の両親について話をする。曰く、両親は学者であり、かつてエリザベスが女優になることに反対したこと、そして、母親は尊敬すべき本を刊行していて、そのタイトルが『認識論的相対主義について』ということ……。

特に重要なパートであるはずのこのシーンで、エリザベスは、なぜゆえに突然高度な哲学用語を冠した本の話を突然持ち出したのだろうか(しかも、妙に意味ありげな小声で)。その後に続くグレイシーの「私の母はブルーベリーコブラーの最高のレシピを書いた」というコメントと対比させることで、両者の間の文化資本および階級的な差異を物語っている、と見るのがストレートな解釈だろう。しかしそれ以上に、ここでわざわざ言及される「認識論的相対主義」というタームこそ、メタミステリー映画としての本作の、類まれな魅惑を物語っているのだと考えてみたい。