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『顔を捨てた男』は私たちにアイデンティティとは何かを問い直す。A24の衝撃作を解説

2025.7.8

#MOVIE

歌は誰のものか。ではアイデンティティは?

もっといえば、このシーンでは、「歌う」という行為、あるいは「歌」という概念に潜む入り組んだ人称関係と、「既存のポップソングを歌う」という行為が必然的に招来する発話主体の曖昧性のようなものも明らかになっている。

つまり、よくよく考えてみるべきは、そもそもここで歌われているのは一体「誰の歌」なのだろうか? ということだ。物理的に声を発してカラオケに乗せて歌っているのはオズワルドである。とすれば、この歌は、「舞台上のオズワルド(が所有するところ)の歌」なのか? しかし、そのオズワルド役を演じているのは当然ながらピアソンなわけで、その事実からいけば、これは「ピアソン(の身体に属するところ)の歌」なのだろうか? 他方で、この歌の発話主体を同曲の作詞作曲者であるノーマン・ホイットフィールドだと考えれば、「創作者としてのホイットフィールドの(思想なり理念が託された)歌」だということになる。片や、「いやいや、Rose Royceのメンバー=ケニー・コープランドがオリジナルのパフォーマーなのだから彼の(持ち)歌だ」と捉える行き方もあるだろう。さらには、この場面でそれを聴くもの――バーの中の観客や、先程の解釈で示した通り、ほかでもない「エドワード(ガイ)の(ための)歌」だと考えてみるのも筋が通っているような気がする。ひょっとすると、「だれがなんといおうと、私自身の思い出の歌なのだがら、私のための歌なのだ」と強弁する人もいるかもしれない。

アダム・ピアソンとアーロン・シンバーグ監督 / © 2023 FACES OFF RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

こうした思考実験の積み重ねを経た上で結局のところ確信を持っていえるのは、このような場面で、「この歌は誰々が所有する / 誰々に所属する」と決め込んでみるにはいかにもナンセンスである、ということだ。最もすっきりする答えは、つまるところ、ある歌とは、その歌に関わる / 関心を寄せるあらゆる人の歌になりうる――より評論的な語彙を用いるのならば、はじめから可変的で、偶有性に開かれた何かである、というものだろう。

とどのつまり、歌、あるいは歌を歌うという行為は、これまで論じてきたことに引き付けて考えるならば、そこにどのようなまなざしが投げかけられるかによって、存在意味や帰属主体が全く異なるものとして解釈されうるのだ。そして、個々人のアイデンティティもまた、歌が都度々々偶有的な行為の蓄積の中でその性質を変えながら存在していくのと似た形で、各存在の行為を通じてパフォーマティヴに構築されるものである(そうでなければ、エドワード / ガイの実存の不安が招来されることもなかったはずだ)。

要するに、この類稀なほどに「美しい」歌唱シーンは、「個人のアイデンティティという概念を、歌という不可思議かつ可変的な存在とのアナロジーで考えるよう促す」という、極めて興味深く、ラジカルな提案なのかもしれない。そして、歌がそうであるように、「障害」についてまわる美 / 醜の価値判断なるものもまた、一般にいわれているような個人の審美眼や「趣味」に属する本質的基準である以上に、様々な主体が発するまなざしとまなざしの不在が交錯する地点で社会的に構築されたなにものかに、ほかならないのではないだろうか。

© 2023 FACES OFF RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

歴史的に、映画という芸術が、ある種の普遍の美や、その美を奉じる心性と切り離せない存在として受容されてきたことを思えば、本作『顔を捨てた男』は、そうした「前提」へのきわめてラジカルな反駁可能性を秘めているともいえる。そういう意味では、過去に様々な巨匠が切り開いてきた地平の先端を勇敢に歩みながらも、一方で、その地平の前提すらをも大胆にひっくり返しかねないポレミックな作品だともいえる。

この映画を見ながら心に溜まっていくゾワゾワした感覚は、ただそれが単に優れたメタ的不条理劇であるからという理由だけには到底還元できるものではない。この作品を、「美しい」と思うか、あるいは「美しいとは思わない」か。どちらに傾くとしても、否応なくそうした価値判断を下支えする様々な――自らが発する / 自らに寄せられるものを含めた――「まなざし」の存在を意識せずにはいられなくなるだろう。それこそが、このなんとも摩訶不思議な映画に仕込まれた可能性の核心である。

『顔を捨てた男』

2025年7月11日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
監督・脚本:アーロン・シンバーグ
出演:セバスチャン・スタン、レナーテ・レインスヴェ、アダム・ピアソン
配給:ハピネットファントム・スタジオ
© 2023 FACES OFF RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
https://happinet-phantom.com/different-man

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