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ルッキズム批判だけにとどまらない本作の「根源的な力」
このあらすじからも察しが付くはずだが、本作『顔を捨てた男』は、「異形の相貌」を中心的なモチーフとする古典的スリラー映画の系譜へ加えられた新たな一編ということができる。一方で、それらの系譜に位置する作品の中には、異形の身体に対する他者からのまなざしのありようを描くことに主な力点が置かれ、彼ら自身の内面が描かれるにしても、あくまで外部的な視点を経由した寓話的な話法にとどまる例も少なくなかった。翻って今作では、当の彼らの側が経験する一連の出来事を、ほかでもない当の物語の「素材」にされる障害当事者――障害者たる自らをモデルにした作品が自らの意思とは離れたところで作られるという稀有な経験をする者――の体感世界の中で綴っていくという形が取られており、この点こそが、多くの先行例と明らかに異なっている(※)。
※本作の監督を務めたアーロン・シンバーグは、口唇⼝蓋裂の矯正治療を受けた当事者としての経験を元に、外⾒やアイデンティティをテーマにした独創的な作品を手掛けてきた人物だ。また、オズワルドを演じるアダム・ピアソンも、神経線維腫症 1 型の当事者であり、シンバーグの過去作への出演を含め、司会者・俳優として幅広い活動を繰り広げている人物である。

この作品から引き出される「メッセージ」は多岐にわたる。最もわかりやすい例としては、現代社会で目下のトピックとなっているルッキズムへの痛烈な批判が込められているのは明白だ。しかしながら、おそらくこの映画が持つ根源的な力は、そうした規範的な文脈にとどまるものではない。その「根源的な力」は、上で述べた通り「当事者」たる「彼ら」の体験世界を描き出そうとしているということに加え、劇中劇とその創作過程を主要なモチーフとしている事実に関連していると思われる。
劇中劇とは通常、当然ながらそれ自身が劇中で創作された入れ子状のフィクションであるという事実に、明示的な形で自己言及する。また、それと同時に、そのメタ的な構造の必然的な結果として、今まさに観客が目にしている劇中劇を取り囲む世界=眼前に映画そのものが、私たち観客のまなざしを受けてはじめて成立するフィクショナルな存在であることをも、改めて白日のもとにさらす。そうした構造の中では、映画の中で表象される「素顔」とか「本当の自分」なる存在(というより「概念」といったほうが適当だろう)が、いかに恣意的に構築され、あるいはまた、いかようにでも曖昧化されうるかを、私たちは半ば強制的に再認識させられる格好となる。
映画ファンならば、劇中劇の設定が文字通り「劇的」な効果を発揮した例として、かつてジャック・リヴェットが、近年であればアスガー・ファルハディや濱口竜介などの優れた映画作家たちが残してきた仕事を、その好サンプルとしてすぐに思いつくだろう。本作『顔を捨てた男』でも、それらの先行する実践例を引き継ぎながら、「見ること」と「見られること」が根源的に要請する「演劇性」が、先行例に劣らぬ鮮烈さで具象化されているのがわかる。
