青年期のボブ・ディランをティモシー・シャラメが演じた話題の映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』が2月28日(金)より日本公開となる。
評論家・柴崎祐二が、本作の魅力、ディランという存在、1965年の「事件」について論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第23回。
INDEX
ボブ・ディランという神秘的で多面的な存在
「Eマイナーをひとつひくだけで、彼は神秘のなかにいる。なぜなら彼自身が神秘そのものだからだ。彼自身が、『ディランはどういう人間なのか』という問題を、『ディランはどういう存在であるか』という問題に変えてしまう。(中略)彼がつながっている世界とは、そして彼がつくったものを見て聞くことによって、結果としてぼくたちがつながる世界とは、いったい何なのか?」
「ディランは自分自身を発明した。彼は何もないところから自分をつくりあげた。自分のまわりにあったもの、そして自分のなかにあったものから、自分をつくった」
「みんなは、それがどんなものなのか、どんなものでないのかをつきとめるのに長い時間をかけたりはしない。みんなは、それをつかって自分の冒険をする」
――サム・シェパード著、諏訪優、菅野彰子訳『ローリング・サンダー航海日誌:ディランが町にやってきた』本文より
ロックの「神様」。偉大なライブパフォーマー。卓越した韻文家、詩人。ビートニクを継ぐもの。ノーベル文学賞受賞者。俳優。画家。伝承歌の紹介者。ボブ・ディランは、20世紀のアメリカ文化を様々な面で象徴しつつも、そこに込められた期待を常に裏切ることで、他に類例の無い強固な象徴性を纏い続けてきた。もしかすると、現代(厳密に言えば1960年代以降の現代)における文化的な「シンボル」とは、そのように逆説的で再帰的な方法のみによって実践されるなにものかなのかもしれない。しかしそうは言ってみても、ボブ・ディラン自身は、なにがしかの綿密な計画に基づいて実践を積み重ねてきたつもりはないと言うだろうし、きっと「すべてはそうだったから」と嘯くのみだろう。

かつて、かのトッド・ヘインズ監督が『アイム・ノット・ゼア』で特異な手法とともに複数のディラン像を描き出してみせたように、彼は多面的な人間である。彼自身がそういう存在であるとともに、ディランを語り、ディランとはどんな存在であるかと問いかける私達も、(ヘインズがそうしたように)自ずと多面的な思考へ誘われていく。