INDEX
『ゆきてかへらぬ』を貫く「水」の美学
田中がいう「ひとつの世界」を描き出すにあたって、『ゆきてかへらぬ』全編を通して貫かれているもの。それは、雨に象徴される「水」の美学である。
長谷川泰子(広瀬すず)、中原中也(木戸大聖)、小林秀雄(岡田将生)。三人に上空から等しく降るのは、雨であり、雪である。眠っていた長谷川が目を覚ます、そのオープニングからして、遠くから徐々に聞こえてくるのが雨の騒めきであるということは、このシーンが『ゆきてかへらぬ』のドラマツルギーの核心を、静かに宣言する場面であることを意味している。
「ひとつの世界」に、等しく降る雨。オープニングが、屋根の上の長谷川の姿、そして真上から見下ろす──後に中原の姿だとわかる──傘を差す人の姿へと連なっていくことは、示唆的だ。まるでブリューゲルの『バベルの塔』のように、人々のうごめきを、スッと俯瞰するような視点が常に見え隠れする。

『ゆきてかへらぬ』では冒頭から、本当によく雨や雪が降る。中原の詩の言葉を借りれば、「今日も小雪の降りかかる」世界が、そこにはある。その最中を、長谷川と中原が傘を差して歩く。
そして小林の鮮やかな初登場シーンは、激しい雨のなかをずぶ濡れになって、長谷川と中原が暮らす家に飛び込んでくるものとして訪れる。
三人の頭上からは、絶えず雨粒が叩きつけてくる。誰もが、水気を帯びている。『ゆきてかへらぬ』は、たしかに愛やら恋やら友情やら、あるいはそのどれでもない想いをめぐる映画であるかもしれないが、しかし同時に、そうしたすべてを相対化するような雨が降りしきる「ひとつの世界」をめぐる映画でもあるのだ。
だが雨は、物語が後半に入っていくにつれ、ピタッとやむ。
しかも驚くことに、長谷川が小林の家へと引っ越していく、その直前に、土砂降りだった雨がピタリとやんでしまうのだ。ここから終盤にかけて、『ゆきてかへらぬ』の世界に雨が降ることは、ない。まるで空が、雨粒を落とすことを忘れてしまったみたいに。
