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広瀬すず達に等しく降る雨。『ゆきてかへらぬ』に見る脚本家 田中陽造の「水」の美学

2025.2.21

#MOVIE

「一つの世界を作りさえすればそれでいい」

脚本家の仕事というのは、映像が完成するまでの多くの工程のなかで痕跡が見えづらくなるものではあるし、そもそも都度の発注に応じながら書きあげていくことがほとんどなのだから、脚本家の独自の世界観というのは名指しづらい面もある。

だが、それでもたいていの有名脚本家が携わった映像であれば、観終わったあとに「ああ、この脚本家らしいな」と素直に思えるはずだ(近年多くの話題作を手がける脚本家たちを思い浮かべてほしい)。

もちろん、田中脚本作を観たあとにも、そうした感慨はある。いや、むしろそこらの映画では到底味わえないような衝撃を、田中の脚本は観客たちにもたらしてきた。

では、田中脚本を田中脚本たらしめている特徴はなんだろうか──。そう問われれば、思わず口ごもる人は少なくないのではないだろうか。田中脚本であるがゆえの何かはビシビシと伝わってきているのに、その「田中印」たる特徴を言葉にしろといわれると、それを明示することは、なぜなのか、なかなかに難しい。

たとえば映画について語り、綴る名手であり、また優れた聞き手でもあった故・山根貞男をもってしても、『田中陽造著作集 人外魔境篇』(文遊社、2017年)に収録された1981年のインタビューでは、田中の核心をなかなか探り当てられずにいる。

そこでは、田中がなんとか「自分がない」という言葉をこぼすのがやっと、という具合なのだ。しかも困ったことに、この田中の「自分がない」という言葉は、決して田中の脚本が無個性であることを意味しない。むしろ強烈な個性があるのに、その内実を田中自身も、他人も簡単に指し示すことができず、苦し紛れに口にされるのが「自分がない」という一言なのである。

しかし、そうした雲をも掴むようなやりとりのなかで、田中がふと、『ゆきてかへらぬ』を考える手がかりにもなるようなことを話している。

「脚本(ほん)というのは一つの世界を作りさえすればそれでいいんじゃないかという思いがあるんです。要するにブリューゲルならブリューゲルみたいな、いっぱいいろんな人がいて、あれを(中略)ドラマの中で全部出せば、それは一つの街であるし、一つの人間世界を切りとったことであるし、それが自分なりにできたと思ったら、それでその脚本(ほん)はいいんじゃないかというのがあります」

──『田中陽造著作集 人外魔境篇』(文遊社、2017年)
ブリューゲル『バベルの塔』1563年、美術史美術館(オーストリア・ウィーン)所蔵

画面の端々で、それぞれに人が語らったり、あるいは働いていたりするブリューゲルの絵画のように、あちらこちらで人々がうごめいている、そうした「ひとつの世界」を描き出すことができれば、それは自分にとって、いい脚本である──。そう、田中は述べている。

ほとんど謎かけのようなのだ。しかしこの田中の言葉を胸に『ゆきてかへらぬ』を眺めていると、まるで束の間、目が醒めるようにして像が結ばれていく。

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