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もっともらしいハッピーエンドをどう見るか
『コッポラの胡蝶の夢』と題された、タイトルの通り荘子がひとつのモチーフになっている映画も作っているコッポラのことは、『地獄の黙示録』『テトロ過去を殺した男』『カンバセーション…盗聴…』の三本を特に偏愛しながら、ずっと気にかけている。気にかかる、そう、とんでもなく面白い映画もとんでもなくつまらない映画も平気で撮るという振れ幅の大きさのせいで、良くも悪くもドキドキハラハラで目が離せない存在なのだ。その意味では例えばイエジー・スコリモフスキのような監督にも近いが、それでハリウッドいち(つまりは世界一)の大作映画監督でもあるのだから、そのヤバさはひとしおだ。
しかも、本当に賭けに出た作品である『地獄の黙示録』、そして本作『メガロポリス』は、自ら私財を投げ打って予算を捻出し撮っている。『地獄の黙示録』は結果的に賭けに勝った(制作費の三倍の興行収入を上げた)が、今回は興行成績でいえば大惨敗(興行収入は今のところ制作費の十分の一)だ。とはいえ、さしあたり重要なのはこの映画から僕自身が何を受け取り、この文章を通じて伝えられるのかの方だ。

『地獄の黙示録』は、ジャングルの奥で王国を築くカーツ大佐に、その暗殺の任を負ってジャングルに入っていくウィラード大尉が魅入られてミイラ取りがミイラになりかねないような雰囲気になる映画だが、そうした状況に、なんら納得感のある解決がなされることもなく、かなり強引なやり方で終止符が打たれる。コッポラの妻エレノアが監督した、『地獄の黙示録』の制作を追ったドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』で明らかになるように、ラストシークエンスは、混迷する脚本執筆と撮影の合間にエレノアに連れられて、コッポラ自身は半ばイヤイヤで偶然見た牛殺しの儀式に着想を得ている。カーツの心の闇、泥沼化するベトナム戦争といった出口のない問いに臨む彷徨そのもののような映画が、最終的には、コッポラ自身が企図した明察とは無縁の、非意味的な祝祭性を帯びることで傑作の地位を得た。
さて対する今作は、非常にもっともらしいハッピーエンドを迎えるが、果たしてこれを額面通り未来の希望と受け止めるべきか、あるいは、巷で言われるように、現実を捉え損なった老監督の甘い空想と捉えるべきか。僕の考えでは、そのような二者択一的な作品自体への評価とは無関係に、以下のように考えてみることが有益だと思う。
コッポラは確かに、自らが信じる理想の物語を、人生を賭けて映画として完成させた。残念ながらそれは彼自身が望み描いた通りに人々の心を打つことはないのかもしれない。だがしかし、そのこと自体も織り込み済みだということが、作中ですでに明示されているのではないだろうか。どういうことか。
