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エノケンの笑いに宿る「熱」
北沢:今回の「喜劇であり音楽劇でもある」という大前提はオファーされる前から決まっていたことなんですか?
又吉:そうですね。
北沢:そうするとやはり、役者の動きや身体的なエネルギーを意識して今回の脚本を書き下ろされたわけですか。
又吉:はい。あとこの作品では舞台上に立っているエノケンさんだけでなく、私生活の部分も描いているので、ただただ面白いことを言おうとしているだけの人ではないところを意識しました。

北沢:又吉さんは製作発表で、エノケンさんは歴史上の人物のように捉えていたけれど、人生をたどっていくとすごく共感できる部分が見えてきた、とおっしゃっていましたね。最初に「エノケン」という固有名詞を知ったのは、「日本の喜劇王」と謳われた芸人としての大先輩という感じだったんでしょうか。
又吉:はい、そうですね。
北沢:今となっては、実際にエノケンさんのステージを観ることはできないわけですが、この仕事の依頼がある前に映画作品など何かご覧になったことはありました?
又吉:ほとんどないですね。ただ例えば、何かの作品でエノケンさんをモデルにした作中人物というような触れ方、あとは“東京節(パイノパイノパイ)”(※)といった歌は子どもの頃から聞こえてきていました。
あと自分が実際に芸人になってから浅草とかに行くと、エノケンさんにまつわる催しだったり、通りにエノケンさんの看板が出ていたりするのを目にして「ああ、確かに存在したんだな」と感じたり、というような距離感でした。
※北沢注:アメリカのポピュラーソング“ジョージア行進曲“に演歌師の添田知道が独自の日本語詞を付けた1918年発表のコミックソング。エノケンの持ち歌として知られる
北沢:エノケンさんを単独でまず認識したのか、それともよく並び称される古川緑波さんも含めた「日本の喜劇の始まり」としての出会いだったのでしょうか。
又吉:まずはエノケンさんからだったと思います。古川緑波さんに関しても、エノケンさんと同時期に知ったとは思うんですけど、でも最初に知ったのはやっぱりエノケンさんですかね。
北沢:「お笑い」の原点に立ち返るとき、エノケンさんという存在がひとつの入り口になったのは、何か象徴的な気がしますね。僕は又吉さんより年上の世代ですけれども、エノケンさんを知るきっかけはなかなかなくて。
戦前の日本のモダニズム文化に興味を持ったとき、当時のアメリカのジャズソングに日本語詞を付けた“洒落男”(1930年)や“私の青空”(1928年)などの流行歌をヒットさせた象徴的な存在として、軽演劇や喜劇映画でも度々競演した歌手・ボードビリアンの二村定一とともにエノケンのことを知りました。

北沢:例えばエノケンさんの率いた「カジノ・フォーリー」(※)という言葉の響きひとつとっても、その活動からはフランスのパリのミュージックホール、アメリカの喜劇やミュージカルへの憧れ、影響をすごく感じます。エノケンさんと同時代のアメリカの喜劇にはチャールズ・チャップリンにしろ、ハロルド・ロイドにしろ、アイコンとなる人物の強烈さが今以上にあったという気もするんです。
又吉:そうですね。
北沢:又吉さんがお笑い芸人として活動を始めた頃には、漫才ブーム以降の「新しいお笑い」が確立されていたわけで、だからこそエノケンさんをひとつの象徴とした戦前の浅草を中心に栄えた喜劇の盛り上がりがどのように見えていたか。そしてその背後にあったアメリカの喜劇が今の又吉さんからはどう見えるのか、ぜひ伺いたいです。
又吉:その時代のものって映像でも自分の目で見るのはかなり難しいじゃないですか。吉本新喜劇はもちろん今もありますけど、かろうじて僕が接することができたのはチャップリンとかロイド、それこそ松竹新喜劇あたりのもので。何か活気みたいなもの、乾いた笑いというよりは熱を帯びたもの、という印象はありますね。
※北沢注:1929年、浅草の浅草公園水族館2階「余興場」を本拠地として創立された軽演劇レビュー劇団
