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表情をあえて撮らない演出
仕方なくギターを弾くことになったキーボーディストは、ほとんど思いつきに近いノリで、韓国人留学生に「歌わない?」(というより「歌うよね?」)と呼びかける。おそろしく遠い場所から声をかけるから、韓国人留学生の反応は細かくは見えない。カメラも寄らない。遠くから見ている(この感覚が映画の通奏低音となる)。
韓国人留学生は、日本語が上手く聞き取れなかったのか、それとも楽天的なのか、とにかく安請け合いしてしまう。で、いざ、THE BLUE HEARTSの代表曲“リンダ リンダ”を聴かせると感極まる。しかし、映画はその顔を見せない。このシチュエーションがとんでもなく素晴らしい。
誰もがその顔を見たいと思うだろう。韓国人の女の子がTHE BLUE HEARTSのあの歌を聴いて泣いた。そこから熱い青春ストーリーが始まる。そう信じて疑わないだろう。違うのだ。彼女の泣き顔に『リンダ リンダ リンダ』はカメラを向けない。ヘッドフォンをしている女の子の後ろ頭を映すだけ。そこに心配そうに(でも平常心で)駆け寄る3人の女の子たちの姿を遠くから見ている。盛り上げたりはしない。

このシークエンスは、今見てもハッとさせられる。わたしたち観客は、人物の「顔」を想像することができるという発見がある。というか、映画とは本来そういうものでもあるのだと気づかされる。誰かの泣き顔を見て、もらい泣きする(あるいは微笑む)ばかりが映画ではないのだ。
見せないという省略の美ではなく、見せないという豊穣の海がここにある。その海は凪いでいる。この海は荒れ狂ったりはしない。だから、登場人物の誰も(明確には)泣いたり叫んだりしない。わたしたちの日常は凪いでいる。その様を山下敦弘はすっと見つめる。
