15年前の花火遊びで人生を狂わせた2人の青年と、愛する妻子を失いすべてを奪われた男。あまりに危険で奇妙な再会を描く映画『mentor』は、劇的な復讐劇でも安易な贖罪の物語でもなく、「気まずい日常」としてユーモラスに映し出す。
なぜ𠮷田恵輔監督は、ドラマティックな展開を削ぎ落とし、ファミレスや居酒屋で繰り広げられる過酷でリアルな対話にこだわったのか? 被害者・埜本役を演じた綾野剛とともに、2人と3人で変化するコミュニケーションの違和感や、日常の裏に潜む恐ろしさなどから、両者が普遍的な人間論をひもとく。
INDEX
世の中が求める「反省の『正解』」に対する違和感
花火遊び。はしゃぎすぎて、アパートへ火が広がってしまった小学生の龍之介と拓海。大火事は、死者も生んだ。それから15年後。拓海(末澤誠也)は、罪の意識から引きこもりになり、龍之介(磯村勇斗)は、内面的圧迫に抗うようにアーチェリーでオリンピック日本代表を目指していた。そんな加害者2人が、被害者の埜本(綾野剛)に出会う。彼はアパートの全焼で愛する妻子を失い、彼自身も大火傷を負った。

危険すぎる再会の行方を描く映画『mentor』は、わたしたちの想像を次々と覆していく。想定される贖罪や復讐の物語を超越し、人間の根本、そして世界の不条理に拮抗する。その過程全てから、とにかく目が離せない。
監督は𠮷田恵輔。これまでも人間の負の感情に目を向けてきた映画作家だ。そして、キーパーソンである被害者・埜本を綾野剛が演じる。彼は、人間の弱さを独自のアプローチで浮き彫りにしてきた俳優だ。
𠮷田:罪を犯したとき、何をもって反省とするか。それは人それぞれじゃないですか。たとえば芸能人がトラブルを起こした後、選ぶ言葉や謝罪姿を見た人々が正解と判断したら正解なのか。痩せてげっそりしてたら正解なのか。そういうことではないじゃないですか。その人がどう傷つき、どう思い、どう変わったかが大事なはず。なのに世の中は、表面的なことでしか人を見ていない。
この映画の拓海と龍之介も、それぞれ「正解の反省」をしているはず。でも、自分と違うアプローチをされると人は、まるで自分が否定されたかのように捉える傾向がある。結果、「オレと違う反省のヤツは許さん。お前は反省していない。なぜならオレが正解だから」。そんなふうにマウントを取り合ってしまう。

反省と謝罪にも本当は多様性があるはず。だが、現実は判で押したような行為や言葉を求める。映画は、それをユニークな筆致で抉る。
そして、驚かされるのが綾野剛扮する被害者の埜本だ。大火傷の影響で顔半分がただれていながら、笑みを絶やさず、かつての加害者2人の「これから」を後押しする。包容力がありすぎる聖人のような生き方だ。
𠮷田:許す立場の人が、ある種キリストのように全てを許すというのも、オレからするとちょっと気持ちが悪い。消えない恨みを抱えながらも、それでも一歩前に踏み出そうとする。そんなバランスで進んでいくことが大事だと思っています。いまの世の中は、ある一定の方向に向きすぎている。だから、ワントラブル=アウトになる。何かしたら謝罪せよと。そんな世の中の気持ち悪さを、この3人を通して提示し、みなさんどう思いますか? と問いたかった。

1975年生まれ、埼玉県出身。東京ビジュアルアーツ在学中から自主映画を制作する傍ら、塚本晋也監督作品の照明を担当。『机のなかみ』(2007年)で長編映画監督デビュー。2021年公開の『BLUE/ブルー』、『空白』で、2021年度芸術選奨文部科学大臣新人賞、第34回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞で監督賞を受賞。そのほか、『愛しのアイリーン』(2018年)『神は見返りを求める』(2022年)『ミッシング』(2024年)『四月の余白』(2026年)など話題作を数多く手掛ける。
綾野は初登場シーンから、惹きつける。この被害者は、どのようにしてこの苦境を乗り越えたのか。それとも乗り越えてはいないのか。加害者の1人が彼をメンターのように慕えば慕うほど、その真意は不明になる。
綾野:できるだけタイトに埜本さんを生きました。この作品における2人の物語に対して、どう存在するべきか。そこは限りなく監督側の視点に近かったかもしれない。俳優部ではありますが、やはり映画は総合芸術なので。あの2人は、メンタルが可視化されている。それに対して埜本のメンタルはミステリー。答えを提示するのではなく、彼を通して「何を考えなければいけないのか」、観てくださる人それぞれが育んでいかれる。自分はそのような立ち位置だったと思います。
アプローチの方法はいくつかありましたが、作品の記号に留まるのではなく、また中心にまで上がるのでもなく、絶妙なところに位置づける必要がありました。結果、それが「わからない」ということだったと思います。わからせることより、「わからない」まま納得してもらうことの方がはるかに難しいと僕は思っています。「わからない」という、人が接続しづらい部分。こうした経験をする人はマジョリティーではない。だから、このヒューマンスリラーとしか言いようのない映画のベースを「わからない」が司っている。なるべく俯瞰しているような感覚でした。

1982年1月26日生まれ、岐阜県出身の俳優。近年の主な出演作品に、映画『カラオケ行こ!』(2024年)『でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男』『愚か者の身分』(2025年)、Netflix「地面師たち」(2024年)、ドラマ「ちるらん 新撰組鎮魂歌」(2026年)などがある。
「被害者は、加害者を許すことができるのか」。この命題に、観客は直面する。その答えの出しづらさも、綾野が演じる埜本の造形をより深めていると感じる。
綾野:赦す / 赦さない、というベクトルに関しては、ミステリーラインを保っていなくてはいけない立場として、この人物だけに注視した解像度を上げていくべきではないと感じました。なるべく何の情報も入れずに、ノーガードで作品を観てほしいです。埜本は、僕が演じてきた役の中でも、とても人間的。それを肉付けしてデジタル化してしまわないように気を配りながら、彼のことを、一番の理解者として寄り添い続けました。

INDEX
わたしたちの暮らしに「ジャンル」なんてない
シチュエーションは極端で、非日常とも言える。だが、その渦中にいる3人はいたって普通の人間たちだ。この危険な邂逅と交流もまた日常なのかもしれないと思えるほどに。

𠮷田:ヘンなヤツだなと思われるキャラクターがどれだけ出てきても、基本全部自分を投影している。オレを投影しているということの延長線上には、君(観客)もそうでしょ、という想いがある。ある種、普遍的な感情の人間を描いてます。キャラは割と濃かったりしますが、人間誰しもが持っている内面ではある。だから、ごく普通の人、というカテゴリーですよ。強い部分と弱い部分があって、正しい気持ちと悪い気持ちがあって。それを行ったり来たりするのが人間。そのあたりの心の動きをいつも表現したいと思っています。
綾野:作品に対してジャンルを問われますが、日常でジャンルを背負って生きてる人はなかなかいません。今日はエンタメ、今日はアクション、今日は復讐劇と。ですが、ジャンルは観客のみなさまと作品をつなぐ大切な架け橋や合言葉にもなっている。もっと言えば作品によっては、役がジャンルを背負って生きなければいけない作品設計として役割を果たしている事もあります。
それで言うと今回はジャンルを背負ってる人たちではなかった。では、どこに落とし込めるのか。リアリズムに近く、普遍的。その日常に隠れたジャンルと言う名の「状況」は、ひとつ角度を変えればあらゆることが一変してしまう。映画的にはニッチで、日常ではスリリング。それはヒューマンスリラーと言えるのかもしれません。

普通、そして普遍。この点が、とかく極端に物語を捉えがちなわたしたち観客の先読みをズラす。そうして、「何を考えなければいけないのか」に向き合うようになる。
𠮷田:加害者と被害者が会う物語は大抵、大きな事件を解決していくことに結びつく。これは、登場人物たちがお互いに自分の中で総括していくだけで、何かが大きく動くわけではないんですよね。
綾野:ただただ気まずい3人。その気まずさが伝わってくる。(加害者)2人はメンタルが可視化されていますが、被害者である埜本は3人でいてもミステリーリードラインがある。何を考えてるかわからない。ある種、3人のメンタルの話ですね。
𠮷田:普通の加害者 / 被害者ものだったら、ファミレスでただしゃべってるだけのシーンはないと思う。もっとドラマティックにするから。

INDEX
2人と3人で変わる、コミュニケーションの不思議
凄まじい悲劇や罪悪感の後でも、人は日常を生きている。その象徴が、3人が最初に顔を合わせるファミレスの場面だ。
𠮷田:リアリズムの延長線上にあるんだけど、(状況としては)かなりバグってる。でも、そういうシチュエーションにこそ人間が存在すると思って(脚本を)書いている。それがエンターテイメントになるんじゃないか。どのキャラクターも、観た人みんなの中にある。だから、決して頓珍漢な物語ではない。公開後、どんな反応になるのか全然わからないですけどね。
ファミレスだけでなく、居酒屋も頻出する。3人で話すとき、2人で語らうとき。人は変化し、コミュニケーションも変幻することが当たり前に描かれている。

𠮷田:オレ、結構そうですよ。2人で飲むとしゃべれるんだけど、3人になるとエンターテイナーになるとか、役割を作らざるを得なくなる。
綾野:大所帯でも話せる人は全員に伝わる言葉を持っていて、その努力をされた方です。僕は基本、差し向かい。1人に届く言葉に集中していく傾向があります。芝居でも1対1の構造は刺激的でもあり情緒的でもあります。どっちがいい、悪いではなく。この映画の中では、そのことがとても的確に表現されていると思います。3人だと気まずくても、2人だと距離感が変わる。
𠮷田:わかりあえた気になれる。
綾野:下手したら、ちょっと感動する。
𠮷田:酒の力ってのもある(笑)。酔ってるから本音が言えるというか。今回、結構、酒場のシーンが多いけど、オレの映画、全部そうなんだよ。大事なことはだいたい、居酒屋で話す。

INDEX
他者に一貫性を求めるのは、役割で人を見ているから
A、B、C。3人の人間がいるとする。AとBがサシで飲むとき、AとCがサシで飲むとき、それぞれAの違った面が現れる。3人のときは消極的だったAがサシ飲みでは積極的に語りかけたりもする。わたしたちも身に覚えがあることではないだろうか。

綾野:人間は決して一辺倒な存在ではありません。ですが役ですと一辺倒だから安心してもらえるフェーズもあるのだと思います。中立型や破天荒、分析型や冷静さなど、その設定に対して俳優は真面目に向き合います。それが効果的な作品と、そうでない作品がある。いうならば今作はそれが効果的ではない映画だったということです。
𠮷田:オレは人にあまり一貫性を感じない。「どうしたの? 今日、機嫌悪くない?」なんて言われることがあるよね、何にも機嫌悪いことなんてないのに。別にずーっと同じテンションの人はいないでしょ。だから映画でも、前のシーンこうだったから、次のシーンもこうで、ということじゃなくていい。人間は、その日によって違うものだから。そういう一貫性は気にしていない。シチュエーションごとに人は変わる。むしろ、その日その日の、そいつの気分を大事にしたいと思ってます。

綾野:人間に一貫性が求められる理由の1つとして、役職で判断することが多いからではないでしょうか。ただ、(映画において)一貫性は印象付けにはなる。たとえば、同じ癖を見せ続けるとか。そうすることで、そこには謎や物語が生まれやすくなる。これはあくまでも演出の範疇ではありますが。また、ある一貫性の中で違うことをする、いわゆるギャップで相手をドキッとさせたり。一貫性は、剣(つるぎ)にも鎧にもなるもの。
ただ、そんな中にも凄まじい人間力の人はいて。この映画にも出てきますが、一貫性を超えたところでシンプルに生きている人がいる。誰に対しても同じトーンで接することができる。わからない人や物を定義づけたくなりますが、あらゆる人や出来事にフラットに対応できる人はいて、そういう人には心奪われますよね。圧倒的な人間力って、定義できないものなんです。

あの人らしい、あの人らしくない。そんな言い方がある。わたしたちは、他人を定義付けしたがる。
𠮷田:ラベリングされてる方が人は安心する。たとえば、こいつは悪者、ということになると、(SNSで)何言ってもいい、叩いてもいい、ということになる。そして、みんなで石を投げる。逆に、この人は良い人となると、大したこと言ってなくても、もてはやす。
でも、本来、人は多面的なはず。そういう視野を持って人に接した方が、生きやすい。結局、想像力の問題であり、限界であり、欠如である。こんなところにも現代を感じますね。SNSのあんなにも短い文章だけでラベリングしてたら、人間の多面性なんか考えられるはずがないよね。
綾野:見ているのは、ごく一面にすぎない。球体のどの面をチョイスするかによって、捉え方は大きく違ってくる。だからこそ、人間って面白いし、豊かだなと思えます。
苛烈な設定と、予想外の展開。『mentor』は、引き込み、連れ去る牽引力に満ちた映画だが、それ以上に、人間の多様性、多面性に向き合うことで初めて出会える気づきが無尽蔵に存在している。

映画『mentor』

10月16日(金)全国公開
脚本・監督:𠮷田恵輔
出演: 磯村勇斗 末澤誠也 綾野剛
製作幹事:エイベックス・ピクチャーズ
企画製作:スターサンズ
制作プロダクション:SS工房
配給:エイベックス・フィルムレーベルズ、スターサンズ
コピーライト:©︎2026「mentor」製作委員会