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後藤正文はなぜ私財を投じて音楽賞を作ったのか? 音楽ジャーナリズムのあるべき姿とは

2026.4.23

#MUSIC

2018年に後藤正文が私財を投じて立ち上げた「APPLE VINEGAR -Music Award-」。新進気鋭のミュージシャンを支援するこの取り組みは、近年NPO法人化や滞在型レコーディングスタジオの設立を経て、さらなる広がりを見せている。本記事では、アワード設立の経緯や「権威化」への葛藤から始まり、SNS時代における音楽ジャーナリズムの現在地、そして「音楽と社会」の結びつきまでを後藤に深く訊いた。分断が加速する現代において、音楽が持ち得る希望とは何か。彼自身の率直な言葉でお届けする。

※本記事はスペースシャワーTVのアーカイブサイト「DAX」のインタビュー企画「My Favorite X」のテキスト連動版としてお送りします。

アワードを立ち上げた経緯と、権威化することへの懸念

―特定非営利活動法人アップルビネガー音楽支援機構を立ち上げた経緯を教えていただけますか?

後藤:僕が昔、音楽の新人賞を作る夢を見たんです。なぜかその賞がアップルビネガーという名前で、「こんな夢見ちゃった」みたいなことをつぶやいたら、いろんな人にそれはやった方がいいと言われて。それで最初は賞金10万円を自分で出して始めました。2026年になって静岡県の藤枝市にミュージシャン支援のための滞在型レコーディングスタジオも作って、なるべくスタジオがみんなのものになっていくように、運営を透明化する意味合いも兼ねてNPO化しました。

―藤枝市にスタジオを建てたのは、地域振興じゃないですけど、故郷に貢献したい気持ちもあったんでしょうか?

後藤:静岡県の島田市が僕の故郷なんですけど、隣の藤枝市にも同級生たちがたくさん住んでいて、その中の一人が藤枝市役所の空き家対策課に配属されたんですね。彼の投稿をFacebookで見てコンタクトを取り始めたんですが、静岡にはスタジオに向いてる、大きなお茶の倉庫がいっぱいあったよね、という流れになりまして。

故郷に貢献したい気持ちは、最初はそんなになかったんです。10代で高校卒業して、特に何があったわけじゃないですけど、半分ぐらい逃げるように東京に出てきてしまったので。でも、スタジオを作りながら故郷への想いが膨らんでいきました。「やっぱ静岡好きだわ」みたいな気持ちがどんどん自分の中で盛り上がって、今は結構ね、やっぱり愛おしいなって思っちゃいますね。

―夢で見た時から、アワードという形を取ろうと思ったんですか?

後藤:そうですね。当時、グラミー賞も色々言われてたけど、あるだけうらやましいよな、みたいなことを時々考えていて。それが何らかの形で夢に出てきたのかなと。

―とはいえ、アワードっていうものが権威化することへの懸念をラジオ等でも語ってらっしゃいますが……

後藤:基本的にアワードって、1段上に立って誰かに賞を贈るわけなので、はっきりと権威になるってことなんですよね。アーティストとしては、なるべくそれはやりたくないなっていう気持ちではあったんですけど、とはいえ「ミュージシャンが評価される場所がなさすぎるから、なんとかしたいな」とも思ってまして。

偉そうなこと言いたいわけでもないし、自分のプロップスを上げたくてやってるわけじゃないんです。ミュージシャンたちに賞金を贈って、機材代の足しにしてください、みたいなことをやりたいんだけど、どうしてもノミネート作品を決めて大賞を選んだりすると、ある種の批評もしなきゃいけないし、評価を下すことで、どうしても権威性から逃れられないことにかなり悩みました。

そんなときアルフォンソ・リンギス(アメリカの哲学者)の本を読んでたら、「評価というのは才能や表現に対する力の贈り物だ」みたいなことが書かれていて、「ああそうか、素晴らしい作品を作ってる人たちにパワーを送ってるんだ」と考えたら、すごく腑に落ちました。権威に立つのではなくて、贈り物をする側に立つ。それはある種のエールでもあるから、そういう形でならアワードをやっていけるんじゃないかなって。

後藤正文(ごとう まさふみ)
1976年生まれ。静岡県出身。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのVo&Gtであり、NPO法人アップルビネガー音楽支援機構の創設者。2024年にインディペンデントなミュージシャン・アーティストの支援を目的とした「NPO法人アップルビネガー音楽支援機構」を設立し、音楽と社会をつなぐ新たな活動を展開している。

音楽ジャーナリズムのあるべき姿と、SNSで激化する個人攻撃

―いわゆる音楽批評が変わりつつある部分もあるとは思うんですけど、サカナクションの山口一郎さんがその点をYouTubeで話して話題になりました。そもそも音楽ジャーナリズムが日本において成立しているのか、思うところありますか?

後藤:音楽ジャーナリズムと言っても、どの側面からその作品をレポートするかで性質が変わってくるので難しいですよね。一言では言えない社会との結びつきにおいて、どの座標軸で話すのか。音楽的な構造について話すのか、歌詞の文学性について話すのか、いろんな側面がある。それも別に専門家だけがやるものでなくてもよいというか、その作品に対しての様々な見方をいろんな場所で語られることが、楽曲やアルバムの多面的な性質をあらわにしていくと思うんですよね。絶対的な神の視点じゃなくて、ある視点から作品を眺めると、ここに魅力があるよね、みたいな表現が大事だと思うし、これはいろんなやり方があるので、みんなが自由にやるべきですよね。

問題点があるとすると、批判的な表現が避けられてしまうことで、言論の場を寂しくしていると思います。それと、アーティストもファンも、批判的な言葉をどういうふうに受け止めるのか、そしてその批判的な言葉を書く人たちも、どういう感触でその批判的な言葉を書くのか、という点はすごい大事ですよね。

ただ、作品の評価よりも人にクローズアップしちゃうような時代なので、若干推し活的な要素が勝ってきて、作品の批判は私の批判なんだ、という形で作者もファンも批判を受け止め過ぎちゃってるというか、その構造は悩ましいなとは思います。気持ちはわかるだけに特に……

―後藤さんの場合は、自分で音楽を作るミュージシャンでもあるわけですけど、自分の作品が批評にさらされることに対してはウェルカムだし、たとえそれが悪評であっても受け入れるということでしょうか。

後藤:いや、むかつきますよ、普通に腹立ちますよね(笑)。でも、アーティストも反論があっていいと思うから、それを活発にやっていけばいいと思います。「いやいや、それは違うんだ、誤解だよ」とか、「その視点から見るのは誤読に近い」みたいな反論があってもいいし。

もちろん批判的な文章を書いた人も、その文章自体は世の中の評価にさらされることを覚悟して書けばいい。ただそれによって、その人の仕事を奪うまでのバッシングになっちゃったりするのは良くないですけど。書いた人の人間性と混同して、個人攻撃にならなければいいんじゃないかなと思います。僕も何回か批判的な言葉で書かれたことがありますが、その内容と、どの程度自分たちに興味を持って書いてくれたかによりますよね。

そういうこともひっくるめて、評価するってめちゃくちゃ大変なことなんです。賞を作ってみるとわかるけど、自分を面白い書き手だと思わせたいために、誰かを落とすような書き方をするのはよくないと思うし、私はこの文章を絶対に書かなきゃならないんだっていうのっぴきならぬ事情や決意をもって書かれた批判は、された側もなるほど、と思って読めるんじゃないかと思います。だから書く側も覚悟が必要ですよね。僕も毎年アワードに関しては本当にそれだけは退かずに、「いや、後藤のその評価はおかしいんじゃないか」と言われることを覚悟して、評価の場所、壇上に上がってますし、その選考委員を務めています。

―評論や意見を戦わせることは健全ですけど、それがエスカレートして、ただ単に個人攻撃に近い形になり、お互い傷つけてしまう風潮がここ最近は激し過ぎると感じてるんですけど、これって止められないですかね?

後藤:みんなで短時間、短文で消費する文化を止めない限りは、どんどんエスカレートしていくのではないでしょうか。フェイク動画を見ても、短時間、短文でリアクションしなきゃいけなかったら、ただ驚くだけとかになっちゃうけど、それが本物か否か、ちゃんと考える時間が持てるかどうかを、いろんな場所で試されてますよね。

ちゃんとした文章を時間をかけて読んだりとか、2時間の映画を飽きずに観られるとか、イントロを飛ばさずに聴くとか、とにかく情報が山のように押し寄せる中で、時間を使っていられないからと倍速で音楽を聴いたりせずに、時間の使い方を取り戻さないと直らないんじゃないかな。みんな倍速以上のスピードで生きてる感じになってますけど、仮にスマホを忘れて田舎の温泉に行ってみたら、本当にやることがないぐらい、時間がゆっくり流れると思うんですよね。そういう違いについて自覚的になる以外は、この流れを避ける方法は見当たらないのかなと思います。

―いわゆるリベラルと呼ばれる人もそうですが、例えばX上やブログで意見を表明してる人たちの分断分裂だったり、双方を攻撃しあう風潮もここ数年どんどん激しくなってるような気がするんですよ。今おっしゃっていた時間の使い方云々じゃないところで、先鋭化が止まらないのかなという気がします。

後藤:議論はXじゃなくて、町中でやった方がいいと思うんですよね。実際目の前に自分と違う考えの人がいたとして、攻撃的なことを言うのはためらうじゃないですか。画面に向かって書いてると、そのためらいがなくなってきちゃうので、どこまで言っていいのか、その空気を読むことも含めて皮膚感覚がおかしくなってきちゃう。もっと面と向かって話す機会を増やしていかないと、世の中は良くならないし、変わらないのではないかと。もはやSNSで何か言って世の中が良くなる可能性は、そんなに大きくないのではないかと思います。もちろん、SNSが大きなデモに繋がったり、無力だとは思わないけど、今のSNSはこじれる方向にどんどんアクセルを踏み込む役割を果たしてると思うんですよね。

例えば音楽は、立場が違う人がたくさん集まってみんなで踊ったりできますし、そこに幸福だったり平和だったりっていうのが時々立ち上がる。みんなで同じ音楽に感動したり、踊る時に、ああ、何かそういうイデオロギーみたいなものは音楽の前では溶けちゃったりするんだな、そういう瞬間にこそ、可能性を感じるというか。それは音楽の可能性でもあるし、人間の可能性もある。マジで嫌いなやつと好きなラーメン屋が一緒だった、みたいなことが、意外にこの社会を良くする可能性のような気がします。

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