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瀬口真司の短歌における「テクスチャ」と「意味」
つやちゃん:瀬口さんの歌集『BEAM』は、言葉の手触りみたいなものをすごく重視している表現だと思ったんです。自分は短歌に詳しいわけではないんですけど、こういうものを書く人がいるんだということに、衝撃を受けました。瀬口さんは「意味派 対 テクスチャ派」というようなことをいろいろなところでおっしゃっていますが、どうやってこのような表現に至ったんでしょうか?
ディベートのあとで二人の年収を換えなさい 大自由大自在
チョコレートボックスのなかではずっと連帯感が続いています
老人に耳をすませばチップチューン、立たせれば江戸八百八町
(瀬口真司 歌集『BEAM』より)
瀬口:教科書で短歌に出会った頃、写実的な歌よりも、北原白秋や与謝野晶子に惹かれたんですね。そうしたロマン主義的なものを先鋭化させていった結果、いまのテクスチャっぽいものに至ったという脈絡はあると思います。
短歌の歴史の中で、王道とされる写実的 / リアリズム的な表現と、それをひっくり返すような反リアリズムの流れは、けっこう揺り戻しがあるんですけど、2000年代にはリアリズムの時代があったんです。そこでやられていたことは、「物をよく見て観察して描写する」という保守本流のリアリズムではなくて、もっと自分の体感に寄り添ったリアリズムで、むしろ描写を捨てていくんですね。そうした技術の脈絡から出てきているものでもあると思いますね。
—近代以降、いわゆるニューウェーブ短歌くらいまでの短歌には、私小説的な生々しい私性の吐露のような側面があったかと思いますが、「テクスチャ派」というのは、そこからもまた違った表現、ポスト私性のような潮流が生まれていると理解すればよさそうでしょうか?
瀬口:そうですね。観察をしてはいるんだけど、なにを観察しているかというと、モノではなく、言葉が持っているイメージの文脈であったりする、ということだと思います。
—それで、「意味」もなくなってきている? 前衛ないしシュルレアリスム的なことともまた違うのですよね?
瀬口:ある種の歌はそういうふうに、意味を軽視するというか、シニフィアンとシニフィエ(※)の関係を解体するようなことをやろうとしていると思います。一度言葉を洗い直して、全く新しいものに仕立て直す。でもこれは、ロシアフォルマリズムにおける異化だったり、塚本邦雄だったり、詩の技術としてはずっとあるものではあるんですね。
※シニフィアンとシニフィエ:シニフィアンは「意味するもの(物の名前など)」、シニフィエは「意味されるもの(その物が持つ特徴など)」。スイスの言語学者ソシュールが提唱した概念。
難しいんですけど、僕の場合は、意味がなくなることは不可能なので、意味は利用する資源と言いますか……。意味から逃げたいわけでは全然ないですね。意味を拒否して自動筆記みたいな感じになりたいわけではない。意味にもイメージや香りがくっついてるので、それをゼロにしてハナモゲラ(※)的になるのは、歌に対して拗ねていると思うんです。短歌のことを愛しているので、拗ねたくはないですね。
※ハナモゲラ:意味のない音の羅列。1970年代後半に山下洋輔、タモリらの仲間内での遊びから発生し流行した。
つやちゃん:いまおっしゃった「意味から逃げたいわけじゃない」というのは、けっこう大事な話なんじゃないかなと思います。たとえばPeterparker69は、めっちゃテクスチャの音楽なんだけど、ちゃんと「歌」もあるじゃないですか。テクスチャの「裂け目」みたいなものによって、歌が面白く聴こえる。