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ローションまみれで中野の商店街へ。過剰なエネルギーと日常の風景の共存に必要なのは「交通整理」
少し、丁寧に解説していきましょう。
小劇場演劇のなかでは伝説の作品として知られる劇作家 / 演出家である太田省吾の『水の駅』。一本の水道に集まる人々の生を、とてつもなくゆっくりとした動きで表現したこの作品は、世界的に知られる名作です。かれらは、このパロディーとして、水道から流れる水をローションに置き換えて上演。俳優たちはゆっくりとした動きを維持しようとするものの、撒き散らされたローションに足を取られてずっこけてしまいます(元ネタを知っている人間にとっては、それだけですでに最高です)。

そして、ローションまみれとなったかれらは、それまで閉ざされていた劇場のシャッターを開け、ゆっくりとした動きのままに劇場の外へと出ていきます。



そこには、中野の商店街を行き交う人々。もちろん、衣装を身に着け、ローションまみれになり、ゆっくりとした動きで道路を横切るかれらの存在は、平穏な日常に現れた「異物」として注目を引くもの。しかし、この異物たちは、演劇とは関係がない通行人にとって、邪魔以外の何物でもありません。
すると、何人かの俳優が演技を一時停止し、歩行者や自転車が通れるように交通整理をはじめました。
唐十郎や寺山修司といった往年のアングラ演劇であれば、きっと「通行人など関係ない!」と言わんばかりに自らの存在を主張し、その表現を貫徹させるでしょう。あるいは、過激なパフォーマンスアーティストであれば、日常への「介入」という大義のもと、一般市民の迷惑を顧みずにパフォーマンスを続行するかもしれません。なぜならば、「過剰なエネルギーを撒き散らし」、「日常を揺さぶること」が、かれらの目的なのだから。
でも、ザジ・ズーは、眼の前に広がる日常を揺さぶらない。むしろ、その過剰なエネルギーと、日常の風景とを両立させるために、パフォーマンスを一時中断して、交通整理をはじめます。演劇をやりたい、でも迷惑をかけずに。劇的な場面を日常に誘い込みたい、けど邪魔にならないように。

「日本は少子化と貧困で終わっていくので今後の目標は生存です」。
このセリフは、ザジ・ズーのメンバーらと同年代にあたる映画監督・山中瑶子が、『ナミビアの砂漠』のなかで使っていた象徴的な言葉でした。日常を営み、生存を続けることそれ自体が難しい2020年代中盤のリアリティにとって、旧来型の「日常を揺さぶる」ような態度は急激に意味を失いつつあります。今、切実なのは、日常を揺さぶる革命ではなく、「生存」を実行し続けることです。

そのような補助線を引くと、ザジ・ズーの作品が、違う角度から見えてきます。
シェアハウスという日常から活動を開始したかれらは、共通言語であるパロディーを通じて熱量の高い表現を打ち立て、抜き差しならない日々を生存します。しかし、かれらは、かれらの生存の周りにも、無数の生存があることを知っている。だから、きちんと交通整理をして、誰かの生存とわたしの生存とが両立するようにする。それは、表現がぶれているわけでもないし、単純に「いい人」だからやっているわけでもありません。それは、ザジ・ズーの示す「共存」のかたちではないでしょうか。


