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NEWS EVENT SPECIAL SERIES

卯城竜太(Chim↑Pom)×宇川直宏×池田佳穂で語る、アートの現場としての「歌舞伎町」

2025.11.1

『BENTEN2』

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都市が「再野生化」している──確かに最近の東京を見ていると、そんなビジョンが実感できる。コロナ禍に閑散としていた繁華街は、いまやインバウンドで溢れ、往時の活気を取り戻したかのようだ。特に新宿・歌舞伎町の生命力はしぶとくて強か。正直に言うと僕はコロナ禍の歌舞伎町で起こっていた現象をおもしろいと感じた。

そんな歌舞伎町で今年もオールナイトのアートイベントが開催される。アートコレクティブであるChim↑Pom from Smappa! Group(以下、Chim↑Pom)らのキュレーションによる『BENTEN2 Art Night Kabukicho』(以下、『BENTEN2』)がそれだ。これまでも歌舞伎町を舞台に様々な展覧会やイベントを仕掛けてきたChim↑Pomが「都市の再野生化」をテーマに、新宿各所で展開してきた「WHITEHOUSE」や「デカメロン」といったスペースを用いた大規模なフェス。新宿を回遊しながらアート作品やパフォーマンスを体験する刺激的な3日間になりそうだ。

では、具体的にどんな内容なのだろうか? 主催者の1人であるChim↑Pomの卯城竜太に加え、昨年に引き続きライブストリーミングスタジオ兼チャンネル『DOMMUNE KABUKICHO」SATELLITE STUDIO』を開設するアーティストの宇川直宏、そしてパフォーマンス、ライブ、物販、飲食などが展開される「アー横」のキュレーションを担うインディペンデントキュレーターの池田佳穂を迎え、歌舞伎町ど真ん中に位置する物件「王城ビル」で語り合ってもらった。

周縁の文化を巻き込み、一切の制約がなくアートの拡張を体感する場

―まず、卯城さんはどうして今回この3人の座組みをチョイスしたんですか?

卯城:他にもキュレーター陣はギャラリストの山本裕子さん、アーティストの涌井智仁さん、同じくアーティストの磯村暖さんがいるんですが、そのなかでも「いわゆる展覧会」ではない企画を仕掛けてくれる、宇川さんと池田さんの言葉を聞いてみたかったんです。宇川さんのDOMMUNEや池田さんの「アー横」は、展示や作品という既存のアートの枠組みとは異なるアプローチです。この3人で話したら、いわゆる芸術祭とは違う『BENTEN2』の側面が見えてきそうだな、と。

卯城竜太(うしろ りゅうた)
1977年東京都出身、2005年に東京で結成されたアートコレクティブChim↑Pom from Smappa!Groupのメンバー。

―なるほど。宇川さんはChim↑Pomや前回の『BENTEN』とはどのように関わってきたんですか?

宇川:僕とChim↑Pomは山本裕子さんらが運営するギャラリー「ANOMALY」の所属作家同士だから、長い付き合いです。思い返せばもう17年になる。そのうえで、僕はわかりやすいペインティングアーティストとかではなく、現行のテクノロジーを「エビ反ったかたちで使い倒す」タイプのアーティストなので、どの時代も捻れた前衛性を打ち出し続けています。テックをマニュアル通りではない方法で使うという点で、作家としての一貫性はあると思います。

もともとグラフィックデザインをやっていたんですが、1990年代にはデザインとアートの領域が重なる実験的な現場にいたので、その頃からファインアートにも携わるようになりました。当時はアートにオルタナティブから参入する表現者が増えた時期でもあります。たとえば『BENTEN2』のDOMMUNE KABUKICHOに参加して頂くBOREDOMSの山塚アイ(∈Y∋)さんや演劇やパフォーミングアーツの世界から降臨した飴屋法水さんもそう。椹木野衣さんによる「アノーマリー」「日本ゼロ年」東谷隆司さんによる「時代の体温」などコアなアウトプットも用意されていた時代です。そんな時代にこのフィールドで活動を開始したので、なおさらアートの拡張領域にのみ興味がありまして。それを近年もっとも推し進めてきたコレクティブがChim↑Pomだと思ってますね。

『BENTEN2』は、そんなアートの拡張領域をフィジカルに感じられる現場じゃないかな。周縁の文化を巻き込みながら、一切の制約なくオルタナティブなアートの美意識を立ち上げている。近代でも現代でも追いつけないスピードを掴み取る「現在」アートを標榜するDOMMUNEのライブストリーミング・スタジオという概念にもマッチするので、僕らが普段から渋谷でやっていることを歌舞伎町のフィルターを使ってそのまま投影できるはずです。

宇川直宏(うかわ なおひろ)
1968年香川県生まれ。東京在住。映像作家 / グラフィックデザイナー / VJ / 文筆家 / 大学教授 / そして「現在美術家」……、極めて多岐に渡る活動を行う全方位的アーティスト。既成のファインアートと大衆文化の枠組みを抹消し、現在の日本にあって最も自由な表現活動を行っている。2010年3月に突如個人で立ち上げたライブストリーミングスタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」は、数々の現代美術の国際展に参加し、ロンドン、ドルトムント、ス トックホルム、パリ、ムンバイ、リンツ、福島、山口、大阪、香川、金沢、秋田、札幌、佐渡島、そして歌舞伎町と、全世界にサテライトスタジオをつくり、偏在(いま、ここ)と、遍在(いつでも、どこでも)の意味を同時に探求し続けている。また2020年の10周年にあたり渋谷PARCO9Fへと移転し「SUPER DOMMUNE」と名を改め進化を続けている。 2021年、第71回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

―今年から『BENTEN』のキュレーションに加わった池田さんはどうでしょう?

池田:もともと私は森美術館の学芸員だったので、Chim↑Pomのみなさんと初めてご一緒したのは森美術館でのChim↑Pomの個展『ハッピースプリング』(2022年)(※)でした。当時から私は森美術館で働きながら、高円寺を拠点とする松本哉さん等が始めた「素人の乱」にも関わっていて。インスティテューショナル(制度的)なところにも、オルタナティブなところにも興味があったんです。

池田佳穂(いけだ かほ)
インディペンデントキュレーター。2016年より東南アジアを中心に、土着文化や社会情勢から発展したコレクティブとDIYカルチャーを調査。展覧会、パフォーミングアーツ、教育プログラムなどを複合した横断的なキュレーションに関心をもつ。森美術館でアシスタントとして経験を積み、2023年春に独立。近年の展覧会やラーニング事業の主な企画実績として、『バグスクール:野性の都市』(BUGアートセンター、2024年)、『みんなで土をラーンする!』(山中suplex、2024年)、『一人で行くか早く辿り着くか遠くを目指すかみんな全滅するか』(山中suplex、2024年)などがある。

池田:Chim↑Pom展で私が主に力を入れていたのは『道』というインスタレーション作品で、メンバーと相談しながら、いろんな制約のなかでできることを増やしていきました。作品の内部に公共性を持たせて、そこで起こるイベントやハプニングみたいなものも含め、会期を通してその場所がどう育っていくのかを見つめることがおもしろくって。

※Chim↑Pom from Smappa!Groupの初期から近年までの代表作と新作計約150点を一挙に紹介した初の本格的回顧展。森美術館にて2022年2月〜5月に開催された。「ハッピースプリング」には、長引くコロナ禍においても明るい春が来ることを望み、たとえ待ちわびた春が逆境のさなかにあっても想像力を持ち続けたい、というメッセージが込められていた。

―たしかに『道』は尻上がりにカオティックになっていきましたよね。

卯城:最終的に話しやすい学芸員が池田さんだけになっちゃった(笑)。

池田:今回私は「アー横」を担当しているんですが、横丁・出店という企画形式だったので、アーティストや文化実践者の方々が展示だけではない出力で、自分たちの活動や作品を紹介できる機会になればと。そこで、なるべく出店数も増やしましたし、今年はステージも用意しました。ステージ上でパフォーマンスやライブ、トークショーなど、とにかく常に何かしらが起きているようなセッティングにしてあります。

時間帯によって出店者も変わるので、いつ来るかによっても景色と体験が違うはずです。それこそ『道』のように、3日間でこの場所がどういうふうに育っていくのか、すごく気になります。結果的に、それがいまの都市のあり方と接続できたらいいなと思いますね。

―お客さんがどんなレスポンスをするかによっても、場のあり方が大きく変わっていきそうですもんね。

卯城:DOMMUNEも「アー横」も2024年の初開催時から続くプログラム。この2つさえあれば『BENTEN』みたいなところがある(笑)。

2024年開催時「アー横」の様子/ 撮影:上原俊
2024年開催時「アー横」の様子/ 撮影:上原俊
2024年開催時「アー横」の様子/ 撮影:上原俊
2024年開催時「アー横」の様子/ 撮影:上原俊

歌舞伎町はコロナ禍にまた面白くなった。「大きい音とか過激なアクションとか、単純に強度を追求しやすい街」(卯城)

―これまでChim↑Pomは歌舞伎町で、エリイさんのウェディングデモ『Love is over』(2014年)に始まり、『また明日も観てくれるかな?』(2016年)や『にんげんレストラン』(2018年)など、いくつものプロジェクトを仕掛けてきました。去年から始まった『BENTEN』は、そもそもどういった経緯で立ち上がったんでしょうか?

卯城:いくつかのプロジェクトを展開するなかで、歌舞伎町のポテンシャルの重要度にどんどん気づいていきました。時局的に近年ますます配慮が必要になってきた、例えば大きい音だとか、過激なアクションだとか、そういう単純なる強度を追求しやすい街だから、まずはレギュレーションありきで物事を考える必要がそこまでない。常に街中でもっとヤバいことが起きているだろうからか警察の範疇でもないし、そもそも通報するということ自体に積極的ではないだろう人たちも多い。裏を返せば、周囲に無関心だから結果的に寛容に見えるような公共性がある。

そうやって歌舞伎町の現実と出会い続けてきた先で出会ったのが、この王城ビルです。『BENTEN』開催のきっかけは、いつかここをアートセンターにしようという構想があったのも大きい。展示があってクラブもあって、いつも一線を超えるようなことに出会える場所ができたらなと。

歌舞伎町にある王城ビルは1964年に竣工し、約60年の間、喫茶店、キャバレー、カラオケと人々の交流の場として歴史を刻んできた。2020年に最後のカラオケが営業終了してからは、イベント会場としてクラブ利用などがされている。宇川いわく「寺山修司がのぞきをしていたことで有名なビル」だとか。

―王城ビルを歌舞伎町のアートセンターにしようと。

卯城:王城ビルと出会ったのは、ちょうどコロナ禍だったんです。王城ビルはめずらしく、ビルのオーナーが居酒屋とかカラオケとかの全テナントを経営する自社営業スタイル。だからコロナ禍でテナントが全部潰れて、ビル一棟が丸々空いちゃった。そこに壮大な余地が生まれたんです。

他にも2020年に歌舞伎町のギャラリー「デカメロン」を、2021年に百人町のアートスペース「WHITEHOUSE」が同時期にオープンしました。コロナ禍に歌舞伎町は「夜の街」として評判が悪かったけど、だからこそ居場所だと思えた人たちも一方ではいたんです。。美術館やギャラリーは完全に閉まっていたから、発表の機会や遊び場のない若手アーティストたちが必然的に集まってきて、気づけば歌舞伎町にアートや文化のエッジが立った生態系ができてしまった。『BENTEN』は、それらが可視化できる試みでもあると思う。

『BENTEN2』の会場エリアマップ

卯城:それに、やっぱり海外のアーティストや関係者を歌舞伎町界隈に連れてきてそのスペースとかをハシゴすると、どんだけこのアートシーンが特異なものかがわかるんです。ジェントリフィケーションと無関係に、むしろ繁華街をレペゼンしちゃう感じが世界的にもめずらしいんじゃないかな。

―『BENTEN』はポストパンデミックのプロジェクトでもあったんですね。3日間のイベントにした理由は?

卯城:いわゆる「芸術祭」をやるのには後ろ向きでした。すでに芸術祭はいっぱいあるし、何より大変そう(笑)。ただ歌舞伎町という歓楽街でやるのなら、六本木じゃないけど「アートナイト」が似合うだろうなと……というより、もっと言えばイメージはアート界のフジロックみたいな立ち位置でした(笑)。だから、「アー横」やDOMMUNEを含めて、『BENTEN』はとにかくライブやパフォーマンスが多いんですよ。それも3日間に絞ったからできる部分がある。

そもそも、歌舞伎町でアートをやるうえでずっと気になってたのが、なんで劇場や映画館、ライブハウスはたくさんあるのに、美術館がないんだろうということでした。でも、あるとき気づいたのは、美術館らしい美術館が歌舞伎町にあっても、全く機能しなそうだなと。

つまり、歌舞伎町はモノを売ってきた街じゃないんですよ。むしろ身体やパフォーマンス、サービスなど、出来事を売ってきた場所。だからこそ美術館の代わりに、昔から路上でのハプニングを起こす表現者や、ゴールデン街に通う文化人がたくさんいたりする。そもそも新宿って、そういう身体的なものじゃないとフィットしない街だと思うんですよね。

新宿から渋谷、また新宿へ。ユースカルチャーと盛り場の変遷

宇川:新宿で言うと、今回「状況劇場」の唐十郎さんの紅テントが出展してるのは象徴的ですよね。だって1960年代から1970年代半ばまで、新宿が一番エッジの効いた街だったわけでしょ。その後、渋谷に公園通りとか、まさにDOMMUNEのスタジオがあるPARCOができたことによって、高度経済成長のエクストリームなアングラ・サイケ・ハレンチのハプニングなエネルギーが、ニューウェーブへと浄化され、もうちょっと洗練されていくんです。

―1960~1970年代の新宿から1980年代以降の渋谷へという盛り場の変遷があると。

宇川:はい。そして、今は渋谷がジェントリフィケーションによって漂白され、ファミリーの街になりつつある。もはや現行のエッジーなオルタナティヴを世界水準で映し出し続けているのは、冗談抜きでPARCOだけです。もともとインターネットの普及とともに、1990年代末からゼロ年代にかけてオルタナティブの先端は渋谷から秋葉原に以降していました。闇市の時代から電子パーツやハードウェア等、テクノロジーを投げ売っていた歴史を経て、Windows95以降のWEB黎明期にはオタクの聖地と化し、一時期秋葉原にカオスの神が宿ったのです。2000年の『電車男』、2005年のAKB48劇場を経て、2010年iPhone台頭、SNS大衆化の時代が到来。自宅警備しなくともスマホというパソコンを持って街に出る時代が到来し、2014年のインスタの大衆化を経て、オタク勢力が弱まり、イッドガール復権、メディアではインフルエンサーが幅を利かせ、そしていまK-POPの時代が来たことで、改めて新宿のすぐ隣の新大久保が活気があふれている。つまり55年の時を経て、カオスの中心が新宿に戻ってきたってことです。同じ頃、歌舞伎町には「自撮り界隈」が変異してトー横キッズが溜まりだします。現代のフーテンですね(笑)。いまココです(笑)。

卯城:トー横キッズが生まれたのもコロナ禍でしたよね(※)。「トー横」の誕生と歌舞伎町界隈の新興アートシーンの誕生は、明らかにリンクしていました。

※2015年に新宿東宝ビルが歌舞伎町に開業し、周辺に若者が集まり始める。2018年以降、自撮りをする若者たちが「トー横キッズ」と呼ばれるようになり、彼らにまつわる社会問題もメディアで報じられるようになっていった。

宇川:ですね。ユースカルチャーの台風の目、その推移を1960年代から見てきている「文化気象おじさん」の身としましては、強度を増して戻ってきた暴風域が新宿、そして歌舞伎町かと。言ってみれば「状況劇場」が華やかりし頃、美術、映画、政治、演劇と、全ての極点が新宿にあったわけですよ。例えば大島渚は映画『新宿泥棒日記』を当時のインフルエンサーであった横尾忠則を主役として撮りましたよね。あれは横尾さんが紀伊國屋で万引きするシーンから始まるんです。トー横ならぬ、紀伊國屋キッズですね(笑)。社長の田辺茂一氏も本人役で出演していますが、氏は当時の新宿副都心推進のドンです。

そして高度成長を果たした日本はバブルに流れていく、その気配を都市が感じて、当時、台風は渋谷に移行していきました。当時の西武グループの代表堤清二の脱大衆化です。そしてネットカルチャーが大衆化する以前の1990年代は「渋谷自体がインターネット」といった役割で、アートもファッションもクラブカルチャーも、全ての情報がここに集積し、網羅し、更新して世界を牽引していました。いっぽう、その時代を横目に見つつも、もっとも生々しく無骨で野性味あふれ続けていた街が新宿でした。

―渋谷へトレンドが移行したがゆえに、新宿はむしろ野生的な場であり続けたんですね。

卯城:それで言うと、今回WHITEHOUSEの展示『生きられた新宿「Parallax City」』にリサーチで協力してる吉見俊哉さんが、新宿をかつての浅草に、渋谷をかつての銀座に当てはめていて、すごくわかりやすいと思った。僕が10代の頃、渋谷は日本の中心地って感じだったんですよ。ローカルではない、まさに「センター」みたいな場所。銀座も昔からそうじゃないですか。

でも浅草とか新宿って、いつまでたってもローカルというか。そのローカリティがいまの僕にはすごくフィットしてますね。この前、歌舞伎町のホストが小便くさい場所で「歌舞伎クセェ」って言ってたんですよ。そう捉えてるんだって(笑)。

宇川:逆に言うと、渋谷は宇田川クサくなくなってるのが問題ですね(笑)。僕は堤清二の精神(※)を一人で受け継いでPARCOの9階に籠城し、そこからDOMMUNEを発信してる。これから渋谷という都市がどう変貌していくのか、しっかり見届けたいと思ってますね。

※セゾングループの創業者で、西武百貨店はデパートの中に劇場や美術館を作り、渋谷の街を若者文化の発信拠点として打ち出した。結果西武百貨店の売上を日本一に導き、1980年代消費文化の時代を築いた。

歌舞伎町は「不快、不便、治安悪い」。再開発で再野生化した唯一の街

―『BENTEN2』は「都市の再野生化」をテーマに掲げています。この「都市の再野生化」っていうのはどういう概念なんですか?

卯城:もとをたどると、2023年に王城ビルで『ナラッキー』(※1)という展示をやったとき、1ヶ月で1万8千人ものお客さんが来たんですね。不思議だったのは、あんまりアートの現場で見ないような若い人たちがたくさん来てたこと。Chim↑Pomのことも知らないで来るんですよ。その頃からトー横キッズや立ちんぼは社会問題になっていて、かつインバウンドも増えてきた。

『にんげんレストラン』(※2)をやったときには、近所で飛び降り自殺が相次ぎました。とある歌舞伎町のジャーナリストが言うには、やっぱり若い子たちを「安心」させすぎたんだと思うと。

※1:王城ビルとChim↑Pomが共同で開催したプロジェクト。テーマを「奈落」とし、歌舞伎超祭や歌舞伎役者・尾上右近、多くのミュージシャンらとのコラボレーションで作品を制作。それらが観客や演者らに利用 / 介入されることによって移り変わるという、パフォーマティブな展覧会だった。

※2:ホストが接客をする本屋「歌舞伎町ブックセンター」やカフェが入っていた歌舞伎町ブックセンタービルの建て壊しが決まり、ビルの最後のイベントとして開催された企画。

―ああ、「歌舞伎町は安心ですよ」と。

卯城:そう。でも当時の振興組合の理事長は、歌舞伎町は歓楽街だから「安全だけど安心できる必要はない」って言ってたの。それはそうで、そのジャーナリストは「警戒しないとやっぱりいろんなことが起きるんだよ。」と言ってました。そんなこんな、歌舞伎町に雑多なな人たちがどんどん来れるようになって、一方で問題が続発している話を都市社会学者の仙波希望くんとしてたときに、彼が「歌舞伎町はひょっとして再開発によって再野生化した唯一の街なのかも」って言ってて、それはあり得るなと感じたんです。再開発によって更に敷居が低くなったしね。でもね、そうなると、再野生化した街に来る人たちは、自分も再野生化しないと危ないんだってことでしょ。野生環境でペットは生き残れないから。それがポジティブな意味での個人への投げかけにするのはどうしたら良いか。そこにアートの価値はある気がするんです。

『BENTEN2』のテーマ「都市の再野生化」

「100年に一度」と称される大規模な東京の再開発は、劇的な改造を通じて街の秩序を強化する一方で、生物多様性や「都市の野生」を排除してきた。しかし、「夜の街」歌舞伎町は異質である。再開発と並行して、トー横や立ちんぼ、ネズミの爆発的増加、悪質ホストの問題など、さまざまな「不都合」が目立つようになった。

歌舞伎町は、東京で唯一、再開発を契機に「再野生化」している街だと言えるだろう。

さまざまな不幸が報道される事態である一方で、ここは戦後の闇市からアングラ文化、暴力の排除といった治安維持のいたちごっこに至るまで、常に制度の隙間を再生産してきた街でもある。資本を受け入れつつ狂乱化する、その底が抜けたような破壊衝動と開放性は、均一化する東京において稀有なアイデンティティを示し、皮肉にも最も賑わう街となっている。

「野生」の歴史と現在性を、奇しくも再開発と足並みを揃えて誕生した多くのBENTENの会場から検証してみたい。

*本テーマは、都市社会学者・仙波希望氏との会話を引用したものである

Chim↑Pom from Smappa!Group (公式サイトより)

―再開発がむしろ「再野生化」を招いたと。実際、石原都政で新宿コマ劇場前がジェントリフィケーションされてから、今度はそこにトー横キッズが溜まりだしたときには驚きました。歌舞伎町には抜け出せない「悪い場所」性があるんだなと。

卯城:もともと歌舞伎町は沼だったらしい。だから隣の弁天公園には水の神である弁天様が祀られていて、街の聖地になっている。弁天様は芸能の神様でもあるし、湿った土地の文化的な特性にぴったりハマるようなエリアですね。

宇川:ジェントリフィケーションって宮台真司さんがいつも説明してくださる「快適、便利、安全」という都市環境のクリアランスじゃないですか。本来それらお膳立てが「安心」を生むわけですよ。でも、歌舞伎町って「不快、不便、治安悪い」でしょ?(笑) どこから安心のイメージが湧き起こるんだろう。この欲望と快楽を貪る荒々しい街に安心を覚える方が逆にサイケデリックだと思う。つまり歌舞伎町の側ではなく、日本社会の側が歪み切っているということです(笑)。

卯城:たしかに。

宇川:どんな環境下においても安心、つまり心の平穏は重要ですよね。もし若い人たちが歌舞伎町を「安心」だって思えるなら、逆に生活環境がどれだけ荒んでるのかってことでしょ?

そう考えると「安心」は居心地のよさ、つまりありのままの存在の受け皿なので、まさに歌舞伎町が飼い慣らされていない「野性の証明」を果たしてくれる場所であることは事実でしょうね。「野生」そし「野性」って、天然の血が通ってるかどうかが重要だと思うのです。人間行動の根源的な動機としての欲望や快楽の奥には、痛みも悲しみも苦しみも含んだ血の輝きと複雑なコクがある。だからこそここではリストカットと同じように、生きてるって実感を得られるんじゃないか。そのように荒々しく本能的な、さまざまな野性の受け入れを果たしてくれる歌舞伎町にいると「生きてる」と感じられるから「安心」なのかもしれないですね。

―池田さんは『バグスクール2024』(※)のキュレーターとして「野生の都市」をタイトルに掲げていました。「都市の再野生化」についてどう考えますか?

池田:バグスクールでは私が最初に複雑な展示構造を構想し、それをインフラに見立て、出展アーティストたちに応答してもらいました。また、会期中ではトーク、ワークショップ、パフォーマンスなどの参加型プログラムを頻繁に開催し、展示室内だけでなく街に出ていきました。たとえば出展アーティストのトモトシさんには「東京駅で終電を逃す」という開館時間を度外視したワークショップをやってもらったり。会期中ほぼ全日にわたって何らかのプログラムが行われ、さまざまな背景を持つ人たちが水平的に意見を交わしたり、交流したりする場になりました。

私はキュレーションを行う際、インドネシアで出会った「Exhibition As A Social Playground(社会的な遊び場としての展覧会)」という言葉を大切にしています。これは、キュレーションの対象をオブジェクト(作品)だけにとどめず、そこに集う人々やコミュニティ、さらには社会へと広げていこうという考えです。それは作品を選定し、伝えたい文脈のもと空間を演出するだけでは叶わないように思えます。

その意味で「野生の都市」では、ギャラリー内外を展示・プログラムをうまく併用することで、改めて都市のさまざまな側面をアーティストや来場者と一緒に目撃できました。

グループ展と参加型プログラムを組み合わせたアートプロジェクト。インディペンデント・キュレーターの池田佳穂がBUGと協働で考案する。アーティストと学び合うなかで、有機的な作品購入体験も目指す。BUGの活動方針の一つであるキャリアの支援に基づき、作品販売経験の少ないアーティストにその機会を提供します。作品販売に関する書類作成や、価格やサイズの検討などのプロセスにも関わり、アーティストの活動の幅を広げる応援をしている。

池田:なので、私が「都市の再野生化」と聞いて感じるのは、都市で整備された制度や構造を受動的に享受するのではなく、能動的に応答していくのかということです。たとえ展覧会・芸術祭の形式になったとしても、アーティストのみならず、来場者も主体的に都市について考え、時には行動できる場にしたいですね。

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