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『フランケンシュタイン』を通してデル・トロが現代に問う。憎悪の連鎖を断ち切ること

2025.10.27

#MOVIE

10月24日(金)に一部劇場で公開され、11月7日(金)からNetflixで独占配信される最新作『フランケンシュタイン』。監督を務めるギレルモ・デル・トロにとって、この作品は長年の夢の結晶だ。

1931年の映画『フランケンシュタイン』を少年時代に観て以来、いつか自分の手で撮りたいと願い続けてきた。『シェイプ・オブ・ウォーター』や『パンズ・ラビリンス』など、常に「モンスター=アウトサイダー」の視点から人間の孤独や優しさを描いてきたデル・トロ。そんな彼が、なぜ今、あらためて『フランケンシュタイン』という古典に向き合うのか。

本作でデル・トロは、『フランケンシュタイン』を単なるホラーや悲劇としてではなく、「罪と赦し」「創造と破壊」をめぐる人間ドラマとして描き直す。科学者ヴィクターと、彼が生み出した「怪物」。ふたりの孤独な魂がぶつかり合うその先に、デル・トロが見つめる「いまの世界」がある。

※本記事には映画の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

彼は私自身だ、彼は救世主なのだ。

ギレルモ・デル・トロはこれまで多くの作品で「モンスター」を描き続けてきた。アカデミー賞に輝いた代表作『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)や、人気コミックを映画化した『ヘルボーイ』シリーズ、そして根強い人気を誇るダークファンタジー『パンズ・ラビリンス』(2006年)……。

それらの根底にあるのは、「モンスター」なる存在に託されたアウトサイダー、すなわち世界や社会にうまく馴染めず、時には疎外されるはみ出し者への視線だ。『シェイプ・オブ・ウォーター』の公開時、デル・トロは海外メディアのインタビューでこう語っていた。

「モンスターはあらゆるはみ出し者の象徴です。私は人種やジェンダー、性的嗜好、政治的立場などによって時に疎外されますが、彼らはただ疎外されている。[中略]モンスターはアウトサイダーたちの守護聖人なのです」

『The Talks』インタビューより

そもそもデル・トロがこのように考えるきっかけとなったのが、ほかでもない『フランケンシュタイン』だった。7歳のころ、1931年製作の映画『フランケンシュタイン』を観たデル・トロ少年は、ボリス・カーロフ演じる怪物の姿を見るや、「彼は私自身だ、彼は救世主なのだ」という「啓示」を受けたと語っている。


以来、デル・トロにとって『フランケンシュタイン』の映画化は生涯の夢となった。はじめに自分で映画にしたいと考えたのは少年時代、まだ8mmフィルムで映画を撮っていたころ。長年にわたる構想と紆余曲折が、ついに実を結んだのがこの作品なのである。

2部構成で語られるヴィクターと怪物の関係

『フランケンシュタイン』の映画化にあたり、デル・トロは1931年版をはじめとする過去の映画ではなく、原点である作家メアリー・シェリーの小説に回帰した。オリジナルに敬意を払いながら、自身の解釈とアレンジを加え、物語を新たに紡ぎ直している。

主人公のヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)は、幼少期から厳格な父レオポルドによる苛烈な教育を受け、優秀な科学者に成長した。最愛の母クレアを早くに失ったヴィクターは、「死」を克服すべく禁忌の実験に取り組みはじめる。しかし、その試みは神に背く行為として学界から追放される。窮地にあったヴィクターに資金援助を申し出たのは、武器商人のハインリヒ・ハーランダー(クリストフ・ヴァルツ)だった。

やがてヴィクターは、戦死した兵士や死刑囚たちの遺体をつぎはぎし、恐るべき「怪物」(ジェイコブ・エロルディ)を創り上げる。しかしその怪物はすさまじい身体能力を備えながらも、ヴィクターが求めた知性を持ち合わせてはいなかった。

デル・トロ版『フランケンシュタイン』は、前半はヴィクターの視点から語られ、後半は怪物の視点から語られる2部構成となっている。かたや生命の創造に突き進む科学者、かたや自らの生に困惑するモンスター。本作は、彼らがそれぞれに異なる性質のアウトサイダーであることを明らかにし、両者の関係性をそれぞれの角度から掘り下げていく。

ヴィクターは、母親を亡くした喪失感と無力感、父親への怒りを動力源として「創造」に打ち込む。周囲の理解は得られず、真っ当な弟ウィリアム(フェリックス・カメラー)の存在は時にコンプレックスとなり、弟の婚約者エリザベス(ミア・ゴス)への思いは空転する。取り憑かれたかのごとく「創造」に身を捧げるが、その一方的な期待が裏切られたことを悟るや、自らの創造物を激しく否定する。

けれども怪物は、なぜ自分がこの世に生を受けたのかが分からない。なぜ父であるヴィクターが自分を憎み、拒絶するのかが分からないのだ。やがて彼は世界のありようを学び、ヴィクターを追い始める。それは「自分とは何者か、自分はどこから来たのか」を探求する旅だ。

人は他者の罪をどこまで追いかけるのか。罪をどこまで罰すれば復讐は終わるのか

デル・トロは自らの『フランケンシュタイン』を、ホラー映画でもモンスター映画でもなく、ほとんどシェイクスピア劇のようなタッチで、世代を超えた悲劇の反復、あるいは恐怖の再演として描いている。父親の激しい教育により抑圧された息子は、同じように「出来の悪い」息子を抑圧し、虐待する。また、ヴィクターと怪物、エリザベスの三角関係も、母=妻をめぐって対立する父と息子の関係性を思わせるだろう。

かくして暴力と憎悪は連鎖し、ヴィクターと怪物はさまざまな道理や倫理をなぎ倒し、周囲をことごとく傷つけながら対立する。もとよりヴィクターは生命倫理をかなぐり捨てて「創作」に邁進した男であるし、息子である怪物は生まれながらにして憎まれ、見知らぬ人々にも暴力の対象とされてきたのだ。彼らはアウトサイダーだが、同時に純粋な魂の持ち主でもある。それゆえに激しい執念のもと、破壊的な追跡劇を続ける。

けれども作り手であるデル・トロは、どうにか2人のアウトサイダーを救い出そうとする。ヴィクターの狂気を解毒し、怪物の怒りを醒ます方法とはなにか。物語は狂気のボルテージを極限まで高めたあと、「罪」と「赦し」のドラマへと転化する。

人は他者の罪をどこまで追いかけるのか。その罪をどこまで罰すれば復讐は終わるのか。ヴィクターと怪物による個人的な睨み合いの果てに、こうした現代的なテーマが立ち上がるとき、デル・トロ版『フランケンシュタイン』はほかでもない現在の憎悪と戦争を照射する。

そもそもデル・トロは、全編を通じて「戦争」と「創作」のイメージを周到に敷きつめていた。本作の怪物は、クリミア戦争の影響下において、戦死した人々の肉体で構成され、武器商人が戦争で稼いだ資金によって生み出された。すなわち、憎しみと暴力を生まれる前から身に宿しているモンスターなのだ。

そんな怪物=創造物が、いかにして世代を超えた憎悪の連鎖を内側から断ち切ることができるのか。戦争の時代、人々があらゆるレベルで争い合う現代において、デル・トロは『フランケンシュタイン』を通じてこの核心に接近することによって、自らの生業である「創作」にできることと、その可能性を問い直してさえいる。

デル・トロが『フランケンシュタイン』という古典小説の傑作を現代にアップデートし、創造=創作を切り口に描き直した意味はここにある。生と死、創造と破壊、罪と赦しなど、激しい二項対立の先に待ち受けるラストシーンは奇妙なほどに爽やかで、また穏やかだ。それはデル・トロ自身の優しさであり、同時にひとつの願いでもあろう。

フランケンシュタイン(英題:Frankenstein)

監督・脚本:ギレルモ・デル・トロ(『シェイプ・オブ・ウォーター』、『パンズ・ラビリンス』)
原作: メアリー・シェリー著「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」
キャスト:オスカー・アイザック、ジェイコブ・エロルディ、ミア・ゴス、フェリックス・カメラー、チャールズ・ダンス、クリストフ・ヴァルツ
2025年/アメリカ/英語/149分/原題:Frankenstein

2025年10月24日(金) 一部劇場にて公開
2025年11月7日(金) Netflixにて独占配信
公式サイト:https://www.cinemalineup2025.jp/frankensteinfilm/
公開劇場リスト:https://eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=frankenstein

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