ウェス・アンダーソン監督最新作『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』が2025年9月19日(金)より公開される。ベニチオ・デル・トロを主演に、トム・ハンクス、スカーレット・ヨハンソン、ベネディクト・カンバーバッチら豪華キャストが集結したクライムコメディで、快作との呼び声が高い。
青春時代からウェス・アンダーソン作品を愛好してきたというミュージシャン・福富優樹(Homecomings)に、自身の思い出や監督のフィルモグラフィを振り返りつつ、本作について綴ってもらった。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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ウェス・アンダーソンに夢中になった京都の学生時代
僕が通っていた京都の大学の図書館(情報館という名前だった)の地下には、無数のVHSとDVDが棚に並べられているフロアがあり、誰でも好きな時間に自由に映画を見られるようになっていた。長い横長のテーブルに再生機とモニターがずらっと並び左右と簡単に仕切られているスペースや、昼休みや講義後の時間には争奪戦になるソファー掛けのよりパーソナルなスペースで、たくさんの人がおもいおもいの映画やアニメをじっと見つめていた。ジャンル分けもなく順番も大雑把な棚には、「さ」の行に『地獄の黙示録』と『そんな彼なら捨てちゃえば?』と『十戒』が並んでいたりして、その雑多な映画たちが暮らす海からそのときの気分でジャケットやタイトルを頼りに、片っ端から映画を釣り上げては、ふわふわと持て余した時間を埋めるように見ていった。
大きなTSUTAYAがかろうじて一軒だけあった(それだけでもあの頃の僕にとってはとても重要な役割をもっていた)小さな町から進学してきた僕にとって、京都という町はカルチャーの坩堝で、古本屋さんやレコード屋さん、映画館やレンタルショップがあちこちに散らばる碁盤の目の上をいつも自転車で北へ南とあがったりさがったりしていた。好奇心と興味だけが前へ前へと体や消費を駆動させていく日々のなかで、大学の地下で見る映画は経済的な意味でいってもとても大切な存在だったのだ。なにかをやるべきなんだろうし、それがなんなのかもうっすらと自分で気がついているのに、なぜか時間を持て余していたあの頃に、出会ったたくさんの映画のなかの1本がウェス・アンダーソン監督の『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』だった。

古本屋の100円コーナーでなんとなく手に取る色褪せた海外文学のような空気感、もっというと『ニューヨーカー』に掲載された短編を集めたようなアンソロジーにも似た手触りの物語や、劇中でひっきりなしにかかる名曲たち、リニアな画面に細かく散りばめられた目を惹く美術なんかにも一発で心を奪われたのだけど、どこかインディーっぽい空気をまとう映画にあのビル・マーレイが出ている、ということに、やけにグッときたのを覚えている。僕にとって彼の出世作ともいえる『ゴーストバスターズ』は人生ではじめて好きになった映画でもあるのだ。
その地下のライブラリには他にも『ダージリン急行』『ファンタスティック Mr.FOX』が置いてあってこちらもすぐに好きな映画になった。ちょうど大学を卒業する頃、当時よく通っていた映画館で当時の新作だった『ムーンライズ・キングダム』がかかる特集があり、はじめて劇場のスクリーンでウェス・アンダーソンの映画を観ることができた。観終わったあとは彼の映画のなかのようにどこまでもまっすぐな烏丸通が涙でぐにゃんぐにゃんになっていた。

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大人になりきれない大人たちの、はちゃめちゃになるプラン
在学中にはじめたバンドは小さくではあるけれど軌道に乗り始めていて、僕は卒業後も就職はせずにCDショップでアルバイトをはじめた。決して大きくはない棚には3枚で3000円キャンペーンの洋画のDVDが並べられていて、僕はそれが3枚買わなくても割り引きになるということを、働きだしてはじめてしった(1枚だけ買った場合でも定価から割り引かれて1000円になるのだ)。出勤するたびに1枚ずつ好きな映画のDVDを揃えていった。ウェス・アンダーソンの作品もほとんどがキャンペーンの対象になっていて、何度も何度も家で繰り返し見ることができるようになった(まだギリギリNetflixがいまのように当たり前の存在になる前だった)。これでよかったのか、いつまでこうやっていられるのか / いないといけないのか不安な毎日のなか、毎晩映画を見ることが自分を保っていられるひとつの方法だった。

僕にとって彼の映画は、大人になりきれなかったことにどこか心の端っこを掴まれ続けているような、モラトリアムにもなりきれないようなそんな季節を共に過ごした友達のような存在だ。特に初期の3部作ともいえる『アンソニーのハッピー・モーテル』『天才マックスの世界』『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』、近年の作品と初期作品の橋渡しのような『ライフ・アクアティック』が大好きで、何度見返したかわからない。物語に登場する「大人になりきれない大人たち」が、周到に準備したはずのプランがはちゃめちゃになりそれでもどうにかこうにかまた歩きはじめるのを見ながら、自分の「75ヵ年計画」はこれからどうなっていくのだろうか、とぼんやりと考えていたのだ。
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「計画」の切なさや切実さや、寂しさやキュートさ
ウェス・アンダーソンの作品には、しばしば「計画」と「家族」が登場する。そして、物語に出てくる家族はみなどこかが欠けていたり、機能不全に陥っている。最新作『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』でもそれらのポジションは健在だ(「計画」はタイトルにまで入っている)。今回の主人公は、大富豪で事業家のザ・ザ(ベニチオ・デル・トロ)。彼が計画しているのは、ある大陸全土における大規模なインフラ整備で、それに対して受け取る150年にもわたる利益をザ・ザは狙っている。そしてそんな彼の家族もまた計画と同様に破綻しかけている。

ウェス・アンダーソンの作品のなかで、「計画」はいつも重要視されてきた。『アンソニーのハッピー・モーテル』の「75‐Year Plan(75ヵ年計画)」にはじまり、校庭への水族館建設計画、12歳の駆け落ち計画、脱獄、親友を喰ったジャガー鮫への復讐(とそれを利用したカムバック)、農場に潜入しての泥棒と決死の救出計画……。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』では「家族」にもどるための「計画」が遂行される。『ダージリン急行』では、主人公の3兄弟が再会した母から受け取る3つの協定のひとつが「計画を立てること」だった。詰めが甘かったり、そもそも無茶があったりはするものの、どの計画もはっきりとした意志のもとに立てられている。少なくともその計画の持ち主には自分が歩いていきたい道がはっきりとあって、それを抱えたまま混乱して、落ちぶれて、舗道沿いへと転がっていくのだ。それがなんともいえない切なさや切実さや、寂しさやキュートさになっているのだと思う。巻き込まれるほうはたいがいなのだけど。さて、ザ・ザ・コルダの計画の行方はどうなるだろうか。楽しみにご覧いただきたい。
