ニューヨークのファッション業界を影で支える立役者に日本人がいる。ファッションブランド・OVERCOATを展開し、デザイン企画会社・大丸製作所2を手がける大丸隆平だ。
ミシェル・オバマやカマラ・ハリスの演説時のスーツ、カルバンクライン、フィリップ・リム、ヘルムート・ラングといったビッグメゾンのデザインサポートから大手企業の制服まで幅広く手がけ、2014年にはニューヨークで活躍するファッション製造業のための賞・CFDA FASHION MANUFACTURING INITIATIVEを日本人で初受賞。錚々たる著名デザイナーをはじめ、セリーヌやマーク ジェイコブスなどのロゴやパッケージを手がける業界の大御所アートディレクターであるピーター・マイルズとも親交があるという。
現在、人生で最も忙しいという大丸。なぜ彼は世界トップのファッション都市で、確固たる地位を築けたのか。本質的な技術継承についてや、これからのラグジュアリーなどの話も踏まえつつ、彼の現在地について訊く。
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大丸隆平が、ファッション業界から信用される理由
ーすでにさまざまなインタビューでお話をなさっていますが、改めて、ニューヨークのファッション業界では現在、どのような立ち位置なのでしょうか?
大丸:ファッションデザイナーやクリエイターたちの良い相談役みたいな立ち位置だと思っています。ニューヨークにも縫製工場やパターン会社はたくさんありますが、例えば今シーズンのPRADAが何をやったかなどはあまり興味なく、技術は優れていてもモードやトレンドのことを理解していない縫製工場が多く、デザイナーとの距離が遠いんです。有名なファッション系大学も、もの作りよりPRやマーケティングのクラスを専攻する学生の方が圧倒的に多いです。そうなってくると、例えば服作りをよく知らないインフルエンサーがブランドを立ち上げたいとなったときに、企画と製造の間の会話が上手く噛み合いません。そこで僕がコンサルとして入って、希望をヒヤリングし、こんなのはどうかと実際に自分でサンプルを作って提案します。

1977年福岡県生まれ。日本のメゾンブランドにてキャリアを積んだ後、2006年に渡米。2008年に大丸製作所2を設立。数多くのコレクションブランド、クリエイターに衣服の企画デザイン、パターン製作、サンプル縫製、クリエイティブコンサルティングサービスを提供。2015年に自身のブランドOVERCOATを開始。2014年にニューヨークで活躍する製造業のための賞、第2回CFDA FASHION MANUFACTURING INITIATIVEを日本人で初受賞、2015年に33回毎日ファッション大賞 鯨岡阿美子賞を受賞。
https://overcoatnyc.com/
ー大丸さんのように、デザインから製造までワンストップで請け負っている企業は少ないのでしょうか。
大丸:調べたことないですけど、少ないのだと思います。僕の場合は16歳のときに高校を辞めて、洋服を作ろうと思い立ったその日に紀伊國屋書店へ洋裁の本を買いに行き、家で洋服を作り始めました。何を作るか考えて、パターンを引いて、裁断して縫う。この服作りの工程を一貫できるのが自分のスキルで、それが今の大丸製作所2の土台になっています。このスキルは当たり前のようですが、アパレル業界の製造部門は大まかには企画デザイン、パターン、縫製、生地屋が細かく分業しているため、実は自分たちのようなスキルを持つところは少なかったようです。この業態であれば、クライアントの意図をできるかぎり早く希望通りに形に落とし込むことができます。それが業界からも信用いただけている理由だと思っています。

ー分業しているので膨大な知識が必要な印象を受けますが。
大丸:工数でいうと、九九を2回覚えるぐらいでしょうか(笑)。多分最初に「洋服作りとはこういうもの」と認識したスタート地点が他の人とはずれていたのだと思います。インターネットもない時代に福岡で生まれ育ち、料理本を買いに行く感覚で洋裁の本を買って、本を見ながら服作りを身につけただけでした。ですがアパレル業界は、それぞれの工程があまりに分業していて、スムーズな意思疎通が難しくなっていました。そんな自分のことを、縫製工場長だと思っています。平面から立体を生み出す縫製の作業に服作りの醍醐味を感じます。
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大変な目にもあったNY行き。フィリップ・リムやトム・ブラウンなどとともに名が知れ渡った
ー独学で技術を身につけた先には、ニューヨークのファッションブランドを包括的に支えるまでのものがあったと。ですがニューヨークに来た当初は、契約予定のブランドからビザが下りず、大変な目にあったとか。
大丸:独学で服作りのスキルを身につけたあとに文化服装学院へ入り、卒業後はパリコレにも参加する日本のメゾンブランドで6年間パタンナーとして働きました。そこを退社してフリーランスで仕事をしていたときにニューヨークのラグジュアリーブランドからヘッドハンティングを受けて、それでニューヨークへ行きました。ですが、同時多発テロの影響でビザが下りず、東京の家も引き払った状態でしたので、仕方なくアジア人3人がシェアしていたブルックリンのアパートに転がり込んだのがニューヨークでのスタート地点になりました。

大丸:当時は知り合いもおらず英語も喋れない。その中の一人から、「知り合いのファッション学校を卒業したての子が服を作って欲しいって言ってるよ」と聞き、暇だしやってみようとKマートというスーパーで99ドルのミシンと定規を買って、洋服を作って渡しました。それまでは日本で服作りを生業にしていたのでその仕上がりにびっくりされ、また一着頼まれては作って、その人がさらに違う人を紹介して、というのが連鎖してニューヨークでの服作りが始まりました。そのなかにはフィリップ・リムやトム・ブラウンなどもいて、当時知り合った多くの人と現在も一緒に仕事をしています。この連鎖が15年間続いているだけで、有難いことに自分から営業したことはないです。
ー改めて、それはドラマみたいなお話ですよね。彼らとはどのようなやり取りをされていたんですか?
大丸:希望どおりに作ることもありますが、慣れてくると「それは普通に着れないからビジネスにならないよ」と伝えることも多くなりました。オートクチュールならば良いですが、別軸で売れるものを作っておかないとビジネスになりません。クライアントの中にはレディー・ガガの衣装を作るような「誰が着るの?」というアパレルブランドもあります。でもそれならばそちらに振り切るべきで、中途半端はよくないとアドバイスをすることもあります。

大丸:やっぱり普通に着れないと既成服ではないじゃないですか。メットガラの衣装や政治家の方が特別な式典で着る洋服はその人がその場で輝くように作るべきですけど、量産して売るのであれば、買ってくださったお客さまがそれぞれにかっこよく見えなきゃいけない。うちも組織でやっていますので、彼らが売れないと持続できなくなってしまいます。早く売れるようにしてあげるのが僕の役目かなとも思っています。
ーそうやって関係を作り、ニューヨークのファッション業界から信頼されていったと。今もお忙しいですよね。
大丸:今が人生で一番忙しいかもしれません。コロナが落ち着き、業界がやる気に満ち溢れていて、依頼がたくさんあって。新しい仲間も募集していますので、興味のある方はぜひご連絡ください。
