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定番の批判を解決できずにいる、日本製大作ゲームの課題
ストーリーとゲーム性の両面で完成された『龍が如く8』だが不満はある。その一つがあまりにも冗長なムービーパートだ。これは本作に限らず、世界的に評価の高い小島秀夫の作品や『ファイナルファンタジー』シリーズなどにも向けられる定番の批判で、「映画とゲームは違うのに、操作できないストーリーをなぜ延々見せられないといけないのか?」といった声がしばしば寄せられる。こういった批判は、ゲームにおけるムービー制作が、映画芸術と同じように編集を通した物語の解体・再構築について意識的であれば起こらないものだろう。
『龍が如く8』のムービーは、そのほとんどが登場人物による対話劇で、かつ一貫して説明的だ。多くの日本映画やドラマがそうであるように、登場人物に言葉ですべてを説明させようとする脚本はもどかしく、意図的な飛躍や欠落による想像力の駆動をプレイヤーにもたらさない。芸術表象に必要な詩的感性は、ゲームらしいインタラクティビティの部分で十分に実現されており、その埒外に置かれたムービーの表現性の開拓に対するゲームクリエイターの関心は相対的に薄まってしまう……ということなのかもしれないが、ゲームの大容量化が始まった1990年代後半から30年近く経った現在も、ムービーに対する批評的アプローチが、とりわけ日本製の大作ゲームにおいてなかなか進化できずにいるのは奇妙なことだ。


1980年生まれの筆者による懐古趣味に過ぎないのかもしれないが、冒頭で述べた1992年発売の『ファイナルファンタジーⅤ』、その前年に発売された『ファイナルファンタジーⅣ』のほうが、ゲームにおいて物語ることの可能 / 不可能に意識的だった。箱庭を見下ろしたような素朴なドット絵で表現できることはわずかで、離ればなれになった恋人同士が再会を喜んで抱擁するシーンは人形劇のように簡易で擬似的なものだった。だが、そこにはプレイヤーが表象の不足を想像力で補う余白があり、その場に自分が立ち会っているという感覚を強く感じさせるものでもあった。想像力は、ゲームの仮想世界と現実のプレイヤーの関係をつなぐ架け橋になる。
あまりにも精巧につくられた今日主流のゲームには余白の生まれる余地が少ない。あるいは精巧すぎる空間における余白は、単に綻びや欠落としてとらえられてしまう。リアルな人間ドラマを志向する『龍が如く8』は、ムービーパートにおいてもリアル路線を選択せざるをえないが、それがかえって表現を狭めている。これは『龍が如く』シリーズに限った課題ではない。
『龍が如く8』の、つくりこまれた広大なハワイの街を歩き回る経験は楽しい。さまざまなスポットで仲間との会話が発生したり、思わぬ出会いから始まるイベントやミニゲームの偶発性は、知らない街を散策するときの好奇心と歓びに近い。また、現代日本の諸問題を反映させた物語も、エンタメ的に戯画化されてはいるが実際の歴史に漸近している。これらに対して、映画あるいは演劇の生真面目な模倣に留まるムービーパートの洗練はいまだ道半ばだろう。
ゲーム・オブ・ザ・イヤーを受賞した『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』や『エルデンリング』、eスポーツの人気タイトルとして定着した『ストリートファイター6』の成功で日本発のゲームはかつての勢いを取り戻しつつある。オープンワールドやeスポーツといった海外主流のジャンル・トレンドでそれらが成功を収めているのは、固有の文法をそれぞれが発明し、大切に培ってきたからだ。マージナルな裏社会と現代都市のウォーキングシミュレーターとしての『龍が如く』にも固有の文法がある。それはより鋭く、より豊かに育てていけるはずだ。
