WONKやmillennium paradeのメンバーであり、King GnuやVaundy、米津玄師ら数多くのアーティストのレコーディングやライブを支えるキーボディスト、江﨑文武が初のソロアルバム『はじまりの夜』をリリースした。
幼少期からピアニストとして活躍しながらも、実はロボットエンジニアを目指していたという江﨑。インタビュー前編となる本稿では、アルバムをより多面的に捉えるため、これまでのキャリアを振り返ってもらいながら、彼が持つ価値観やビジョンについて語ってもらった。
福岡で過ごした順風満帆の10代から、上京し挫折を味わいながらもプロの音楽家として成功を掴んだ20代を経て、30歳になった江﨑文武は今、ソロアーティストとしての第一歩を歩み始めている。いずれ「偉大な音楽家」と言われるであろう、大きな可能性を秘めたこの才能に、注目いただきたい。
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物心がついたころにはピアノと親しんでいた幼少期
─江﨑さんが音楽に目覚めたのは、どんなきっかけだったのでしょうか。
江﨑:両親が大の音楽好きだったので、1日中、家では何かしらの音楽が流れているのが当たり前でした。小さい頃におもちゃ売り場へ行くと、どういうわけかずっとトイピアノで遊んでいたと後から親に聞いたことがあります(笑)。そういう僕を見て、「ピアノを習わせてみよう」と思ったみたいですね。それが楽器を始めるきっかけでした。

音楽家。1992年、福岡市生まれ。4歳からピアノを、7歳から作曲を学ぶ。東京藝術大学音楽学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。WONK、millennium paradeでキーボードを 務めるほか、King Gnu、Vaundy、米津玄師等、数多くのアーティスト作品にレコーディング、プロデュースで参加。映 画『ホムンクルス』(2021)をはじめ劇伴音楽も手掛けるほか、音楽レーベルの主宰、芸術教育への参加など、様々な領域を自由に横断しながら活動を続ける。
─物心がついたときには楽器を触っていたわけですね。
江﨑:僕が生まれ育った社宅のアパートには、たまたま同い年の男の子がたくさんいたんですよ。そうなると朝から晩までみんなで遊ぶ環境が出来上がるのですが、ピアノを習い始めた僕は練習をしなければならない。一人だけ遊びに行けないのがとにかく嫌だったし、課題を与えられて弾くのもすごく苦手だったんですよね。ピアノを弾くこと自体は好きだったんですけど、練習嫌いは今も変わらないです(笑)。
─最初に意識した音楽は、The Beatlesだったんですよね?
江﨑:両親はUKの音楽が特に好きで、中でもビートルズが一番かかっていたから自然と覚えたんでしょうね。近所にちょっとモダンな和菓子屋があり、いつもビートルズがBGMでかかっていたんですけど、その前を通るたびに「あ、ビートルズだ!」と言うようになっていたらしく。生まれて初めて認知したアーティストがビートルズで、そこから現在までずっと聴き続けているアーティストです。

─家ではビートルズの他にも、CarpentersやQUEEN、チェット・ベイカーなどが流れていたと以前お聞きしました。そんな中で、特にビートルズが好きだったのはなぜだったのでしょう。
江﨑:「楽しそうな感じ」ですかね。チェット・ベイカーには大人になってから分かる色気みたいなものがあると思うし、カーペンターズはどちらかというと「優しさ」に惹かれたところがあるんですけど、ビートルズは何ていうか、やんちゃな4人が楽しそうなんです。特に初期の作品は、衝動で作られたような雰囲気もあるじゃないですか。後期になるにつれ技巧的、構造的に工夫された楽曲が増えますけど、やっぱり最初は楽しそうな雰囲気が良かったんだと思います。
─僕も原体験にビートルズやYMOがあるのですが、江﨑さんはYMOからの影響はありますか?
江﨑:もちろん作品は一通り聴きました。『増殖』というアルバムがすごく好きなのは、コンセプトアルバムであるということと、そのシニカルさですね。けれども、自分は生楽器のアンサンブルに惹かれるので、どちらかというとそれぞれのソロ作品の方がよく聴いていたかもしれない。細野(晴臣)さんも(高橋)幸宏さんもそうですし、坂本(龍一)さんも特にアコースティックな作品を中心に深掘りしました。
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「難解なことを易しく表現すること」と、難解なことを難解なまま受け止める「勇気」
─先日お亡くなりになった坂本龍一さんは、江﨑さんにとってどんな存在でしょうか。
江﨑:間違いなく背中を見て育った人物の一人です。確か高校生の頃ですが、坂本さんの自伝的著書『音楽は自由にする』に出会って引き込まれるように読んだのを覚えていますね。様々な分野の方と親交があって、それぞれの領域を深掘りできているような音楽家はとても稀有だと思うんです。いろんなジャンルの翻訳家のような部分に惹かれます。
─それこそブラジル音楽からクラブミュージックに現代音楽まで。
江﨑:しかも音楽だけでなく、哲学的な話もできるわけじゃないですか。すごく難解なことを易しく表現してくれる印象があって、そこも「翻訳家」という印象と重なるのかもしれない。技巧的にはアカデミックで実験的なことを用いながら、誰もが口ずさめるようなメロディと共にアウトプットしていくバランス感覚にも長けていて。

─それこそ江﨑さんが目指している姿でもありますよね?
江﨑:そうですね。僕もある種、翻訳的なことができるようになれたらいいなと思うし、それを「教育」という軸でもやっていけたらいいなと思っています。自分の知っていることを、たくさんの人に共有していくのは価値ある行為。むしろ「やらなければならないこと」の一つですし、音で表現する楽しみをみんなが理解できる社会を目指したいと考えています。
─「難解なことを易しく表現する」というスタンスも、相通じるところがあるのかなと。
江﨑:そうですね。ただ、難しいことを易しい言葉で伝えるのは、リスクがつきものだとも考えているんです。難しいことを、難しいままに伝えていくことも少し意識的にやっていかなければいけないタイミングがあるなと思っていて。
─確かに。コロナ禍で対立や分断が生まれたのも、何事も白黒はっきりさせよう、分かりやすい答えに飛びつこうとする行為が原因だった場合も多かったですよね。難しいことを難しいまま、難解なことを難解なまま受け止める「勇気」も必要な時があるのかなと僕も思います。
江﨑:「わからない」と思ったときに、自分の中で様々な思考を巡らせるのはすごく大事なことですよね。タイパなんて言葉が称揚される今の世の中とは、すごく相性の悪い行為だとは思うんですけどね(笑)。何でも分かりやすくしよう、というふうにはならないよう気をつけたいです。

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中学時代にはビル・エヴァンス・トリオの完コピバンドを結成
─ピアノを習い始めて、クラシックに興味を持つようになったのはグリーグの抒情小曲集『ノクターン』に出会ったのがきっかけだったそうですね。
江﨑:はい。ピアノを習い始めてから、最もうまく演奏できたのがこの曲だったんです。というのも、何故だか演奏していてものすごく没入できたんですよ。曲の持つイメージが自分ととても相性がよくて、「これを表現できるのがとても嬉しい」と初めて思えた。それまでバッハやベートーヴェン、モーツァルトなどを習っていても、怖く感じたり、何が言いたいのかよく分からなかったりするところが多かったのに、グリーグに関しては「なんか分かる!」って。小学校中学年か高学年の頃だったかな、そこから能動的に音楽に取り組むような感覚が少しずつ出てきました。
それから数年後、松本清張さんの『砂の器』という小説がドラマ化され、千住明さんが“宿命”というピアノ曲を書いたんです。それが素晴らしくてひたすら練習して、オーケストラスコアを購入して読みまくるという行為をしばらくしていました(笑)。ピアノ協奏曲なのに、ピアノ1台の演奏にアレンジして地元・福岡のフェスで演奏したりして。
─曲作りを始めたのもその頃?
江﨑:作曲自体は小一の頃からずっとやっていました。年に1曲、オリジナル曲を作るというのがピアノ教室の課題であって、練習よりも作曲の方が好きでした。小六で“宿命”にハマってフェスで演奏したときには自分のオリジナル曲も披露していました。

─ジャズにハマったのは、中学校に入学してビル・エヴァンスに出会ったのがきっかけだったとか。
江﨑:確か小六から中一に上がるタイミングだったと思います。食卓に置かれていた『Waltz For Debby』を手に取って再生したのですが、「雷に打たれるような衝撃」とはまさにこのことだと思いました(笑)。「こんなピアノが弾きたい」と強烈に思ったんです。もちろん“宿命”を聴いたときにも感銘は受けたのですが、それとは次元が違うというか。
江﨑:恵まれていたのは、ピアノ教室にドラムをやっている友人がいて、中学のジュニアオーケストラにはコントラバスの先輩がいて、「ビル・エヴァンス・トリオ、できるじゃん!」って(笑)。すぐにビル・エヴァンス・トリオの完コピバンドを組んで練習していました。
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才能豊かな同世代たちとの出会いで経験した挫折と、その後の紅白出演まで
―中学時代にはもう、ジャズバンドをやっていたんですね。そこからWONK結成に至る過程として、まずは東京藝術大学音楽学部へ進学されたのが大きかったのでしょうか。
江﨑:そうですね。その完コピバンドのドラマーはアメリカのバークリー音楽大学に、ベースは藝大に行くことになって、自分も藝大を目指すようになったんです。高校2年生ぐらいのときからもう、授業中に頭の中でアドリブソロが鳴り止まない感じになってしまって、勉強も集中できなかったですし(笑)。
ただ、藝大にはジャズを学ぶ場所がないので、上京後は一番歴史の古いジャズ研である早稲田大学モダンジャズ研究会に出入りするようになって、そこでWONKのドラマーの荒田(洸)に出会いました。

左から、江﨑文武(キーボード)、長塚健斗(ボーカル)、荒田洸(ドラムス)、井上幹(ベース)
―そのあたりから、本格的にミュージシャンの道を志していったんですか?
江﨑:いや、上京して挫折したっていうのが結構大きかったんです。藝大に入学したら、石若駿や上野耕平など、19歳とか20歳とかですでにプロとして活動しているような同世代がたくさんいて、音楽で食べていくのが如何に大変なことなのか思い知ったというか、自信をなくしてしまって。その一方では、本当にジャズが好きで、楽器がうまくてかっこいい同世代がたくさんいる嬉しさもあったんですけどね。
―なるほど。でも「音楽をやめよう」とはならなかったんですよね?
江﨑:やめるまではいかないですけど、レコード会社でインターンをしたり、裏方の道も考えました。でも、たまたまWONKのリーダーの荒田が、「一緒にバンドをやらないか?」って誘ってくれたり、同時期には石若や常田(大希 / King Gnu、millennium parade)、額田(大志 / 東京塩麹)とかと「何かプロジェクトをやろう」っていう話もあって、自分の鍵盤を良いと思ってくれる人がいるならもう少し続けてみよう、音楽を作ろう、ピアノを弾こうっていう気持ちに戻れたのが大きかったんです。
―この人たちに敵わないなと思っていた人たちと一緒にやることで、自信というか、自分の役割を見つけていくことができたんですね。そしてそこから、King Gnuやmillennium paradeで紅白に出演するなどオーバーグラウンドなシーンでの活躍が増えていきましたよね。その中で、何か心境が変化はありましたか?
江﨑:オーバーグラウンドとかアンダーグラウンドみたいな意識が僕の中にはあまりなくて、常にちょっと俯瞰して見ているところがあるんですよね。ずっとジャズにのめり込んでいた10代だったので、J-POPやロックをほとんど通らずにここまで来て、近しい友達が必要としてくれるからやっている、自分のできることをただただやってるっていう感覚なんです。だから心境の変化は特にないんですが、緊張の最大値を知れたり、祖母が僕の仕事を認識してくれたりとかはありました(笑)。
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新しいことができるなら「とにかくまずは試してみたい」
─ここまで、音楽を軸にお話を伺ってきましたが、音楽以外の趣味はあったのですか?
江﨑:ありました。僕、ずっとロボットエンジニアになりたかったんですよ。小学校高学年の頃は、プログラミングをやったり、福岡市立少年科学文化会館のクラブ活動「発明クラブ」に入会していたり(笑)。サッカーロボットを組み立て、それをプログラミングしてロボット同士でサッカーをさせる「ロボカップジュニア」にも参加していました。
─へえ!
江﨑:小学校の卒業文集には、「工学部を出て30歳になるときには、二重跳びができる自律型の二足歩行ロボットを作る」という具体的な目標を掲げていて、ちょうど今30歳なんですけど、ボストン・ダイナミクスのロボットが宙返りができるようになっているから、目標設定の仕方は結構いい線いっていたんだなと(笑)。

─あははは。じゃあ、その頃はミュージシャンになろうとは……。
江﨑:全く思っていなかったです。高校二年生の途中までは、工学部に行くことしか考えてなかったですね。そうやって小さい頃から理系的なことをやっていたからこそ、音楽は自分のエモーショナルな部分を出すフォーマットというふうに捉えているかもしれないです。
─たしかに江﨑さん、音楽活動の中で、新しいテクノロジーに対して敏感ですよね。WONKでの『EYES』スペシャル3DCGライブや、『artless』のDolby Atmosミックスも、江﨑さんのアイデアから実現したことですか?
江﨑:3DCGライブに関しては、ベースの井上幹がゲーム会社で働いているという兼ね合いもあったんですが、Dolby Atmosは僕がメンバーに強くアピールして実現したことでした。今も、音楽よりテック関係のニュースを見る時間の方が多いので、新しいことができるなら「とにかくまずは試してみたい」という気持ちがすごくあるんです。
「ポストAI時代」の到来で揺らぐアイデンティティ
─それでは今、江﨑さんがもっとも興味があるのはどんなことですか?
江﨑:「これから僕たちは、一体どうやって生きていったらいいのだろう?」ということですね。今って産業革命前夜みたいな空気じゃないですか。地球上の様々なことが不安定だし、これまで当たり前に繰り返されてきたことが成立しなくなる瞬間が見え隠れしていて、遅かれ早かれものすごいパラダイムシフトが起きそうだなと思うんです。それに対してみんなはどう対峙するのだろう? というのが、今もっとも興味のあることですね。
例えば職能一つとってみても、僕は「音楽を作る人」という自覚があり、それを好きでやっている自覚もある。変な話、誰かに求められなくてもこれからも音楽を作っていくだろうし、自分が手を動かしていることに意味を感じているんですけど、みんながみんなそういう生き方をしているわけじゃないから、今後いろいろなものが自動化される時代が到来したときに、人はどう生きていくのかなと。

─何か人から求められることに「応える」という形で仕事をしてきた人が、求められなくなったときにどう生きていくのか、ということですね。
江﨑:そうですね。もし機械が圧倒的にクオリティの高いものを短時間で出してくるようになったとき、人は何に生きがいを見出すのか。音楽も、機械が人間のクオリティを超える時が来るかもしれない。でも、僕は誰にも求められていないのに手を動かし音楽を作っていることそのものに意味を見出しているから、そこは関係ないし「僕がやっていることに意味がある」と割り切れる。でも、そう思えない方もいらっしゃるだろうし、そうも言っていられない領域も絶対にあるわけだから。
そうやって社会が大きく転換していく時って、みんな拠り所を求めると思うんですよね。アイデンティティがかなり揺らぐわけですから。そうなったときに、日本に住む我々は何に立ち返るのだろう? と。例えば明治維新は、日本にとって紛れもない大転換期だったわけですが、その時には『武士道』(新渡戸稲造)という本が出たり、茶の湯が見直されたりしたわけじゃないですか。谷崎潤一郎の『陰影礼賛』もそう。
「今の世の中になる前、本来はこうだったよ?」「こういうことが、脈々と受け継がれているよね?」みたいなことが、こういう揺らぎの時代に整理される。であれば、今この瞬間どこかで誰かがそういう整理をしてくれているのではないか、だとしたらそれはどんなものなのかがすごく気になっています。
─それこそ江﨑さんの今回のソロ作『はじまりの夜』のコンセプトにも通じるところがありますよね。
江﨑:今回のソロアルバムの背景には2つのテーマがあります。まずは自分自身のこと。20代は、自分のルーツにないものを音楽家としてたくさん演奏してきたことで、「自分ってなんだろう?」というのが少し揺らいでいたんです。それから、今お話しした「ポストAI時代」のこと。それはおそらく、明治維新期の「揺らぎ」に何かしら似たところがあるのかなと思っていて。そんなタイミングで『陰影礼賛』という本に出会ったとき、「もともとこういう感性があったはずだ」みたいなことを、自分の作品の中で自分に対して言いたいという気持ちが芽生えたんです。自分自身の原点に立ち返るということ、そして、大きな空間で皆で聴くのではなく、あくまで一人で聴くことを前提とした音楽であること。この2つをアルバムのテーマに設定しました。
インタビュー後編はこちらから。
初のソロアルバム『はじまりの夜』について詳しく伺います。