ジャ・ジャンクー監督最新作『新世紀ロマンティクス』が5月9日(金)より公開となる。ある男女の20年に渡る物語を通じて、ミレニアム以降の中国の姿を映し出す、総制作期間22年に及ぶ大作だ。監督のこれまでの作品同様に、ポップミュージックの印象的な使用が重要な要素となっている本作を、評論家・柴崎祐二が論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第26回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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ジャ・ジャンクー作品世界の総決算といえる映画
現代中国を代表する映画作家ジャ・ジャンクー(賈樟柯)は、これまでの作品で、中国内外のポップソングをふんだんに用い、忘れることのできない鮮烈な瞬間を数多く作り出してきた。彼の映画において、既存のポピュラー音楽は、ただオリジナルスコアの代わりにBGMの用を務めるのでもなく、あるいはまた、ただ登場人物の心情を代弁させたり、ただ時代背景の説明が託されているのでもない。もちろん、そうした便益に供されることもないではないが、いつでも必ず、定石から逸脱した鮮烈な印象を、ときには突飛で奇抜とすらいえる強いインパクトを、観るものに与えてきた。

前作『帰れない二人』から6年の時を経て完成した新作『新世紀ロマンティクス』は、ある意味で、ジャ・ジャンクー作品世界の(現時点での)総決算とでもいえそうな映画だ。かねてより、現代中国を舞台に大河的なスケールの人間ドラマを手掛けてきた彼だが、本作では、自身の過去作『青の稲妻』、『長江哀歌』の映像素材や、撮りためていたドキュメンタリー用のフッテージを都度引用しながら、20年余りの間にじっくりと積み重ねてきたサーガのクライマックスというべき一編を完成させた。
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社会史としても興味深い、20年に渡る物語
あらすじを紹介しよう。
2001年。チャオ(チャオ・タオ)は、中国山西省北部の街・大同で、モデルやキャンペーンガールの仕事をしながら暮らしている。恋人は、自身のマネージャー、ビン(リー・チュウビン)だ。炭鉱の閉鎖にともない大同の経済は大打撃を受け、市内には活気がない。そんな中、他の街での成功を目指すビンは、チャオを残して姿を消してしまう。
2006年。チャオは行方をくらましたビンを探して、2000年の歴史を持つ古都=長江・奉節を訪れる。折しも国家事業の巨大ダム開発の渦中にある奉節では、建物の取り壊しが進み、多くの住人が街の外へと移住を開始している。ようやくビンとの再会を果たしたチャオだったが、互いの心が既に離れてしまったことを悟った彼女は、ビンに別れを告げ街を後にする。
2022年。コロナ禍で人々の活動が大きく制限される中、身体を壊したビンが、杖を突きながら経済特区の珠海市を訪れる。かつての縁から、今はSNSインフルエンサーのマネージメント業に就いた知人を頼るが、昔気質のビンは当然その仕事に馴染むことができず、ついには20年ぶりに大同の街へと帰っていく。しかし、国内の急速な経済発展によって、大同の街は見違えるほどの変貌を遂げていた。そしてビンは、スーパーでレジ打ちの仕事をしているチャオと偶然再会する――。

今世紀における中国各地のダイナミックな変化が、各時期に撮影された素材を交えながら展開していく様は、一編の人間ドラマであるのを超えて、壮大な社会史としても大変に興味深いものだ。各種の建造物やインフラ等が凄まじい勢いでスクラップ&ビルドを重ねていく様子に加え、移動手段や通信手段の劇的な進化、更には服装や喋り方、表情の変化に至るまで、この20年間に沢山の人々が経験してきたであろう社会変動の道のりが、繊細かつ大胆なショットによって映し出されていく。実際に生じた急激な変化とは異なり、矢継ぎ早な描写は極力抑えられているが、同時にそのことによって、時代の流れの圧倒的な不可逆性が実態として迫ってくる。他方で、いたずらに重厚な筆致に陥ることもなく、巧みなモンタージュやドキュメンタリー映像の適宜の使用を通じて、むしろ爽やかなユーモアすら感じさせてくれる。
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本作が映し出す、改革開放下の中国の音楽受容
特別に重要な働きを負っている存在が、やはり音楽だ。ホウ・シャオシェン映画での劇伴等でも知られる名作曲家リン・チャン(林強)のファンとしては、彼の手によるクラブミュージック調のスコアが、映画全体が過度なシリアス性に没するのを見事に回避している点をまずは指摘したい。ショットや編集リズムとの密着感も相変わらず素晴らしく、ジャ・ジャンクー監督とリン・チャンのコラボレーションが、まさに今充実期に入っていることを告げている。

既存曲の選曲、使用法も、いつも以上に冴え渡っている。表層的なレベルでは(先にも述べたように)時代背景や心情のアナロジーとしての機能を担いながらも、それぞれの楽曲が、どのようなシチュエーションで、どういったコミュニケーションにおいて、どういった人々の間で受容されている(いた)のかをしっかりと映し出すことで、一層深く強い効果を生んでいる。
例えば、本編冒頭で地元大同の女性たちがアカペラで歌う、中国ポップスの代表的歌手=マオ・アミン(毛阿敏)の“永远是朋友”(1994年)をはじめ、香港のリンダ・ウォン(王馨平)がブレイクするきっかけとなった北京語曲“别问我是谁”(1993年)や、大同の文化センターで歌われる台湾出身の香港ポップス界のスター=サリー・イップ(葉蒨文)の“潇洒走一回”(1991年)、日本での活動でも知られるシュー・ピンセイ(周冰倩)の“真的好想你”(1994年)などは、当時の中国大衆がどういった歌を好んでいたかを現代日本の観客にも説得的に伝えるはずだし、改革開放政策と並行する形で行政区分を超えた東アジア圏の音楽マーケットが大規模に形成されてきた事実を再確認させてくれる。その一方で、大同の文化センターで、シンセサイザーでアレンジされた革命歌“黄土高坡”が歌われる場面などからは、流行曲にとどまらない音楽受容のありようもはっきりと伝わってくる。
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時代の変化と心性をサウンドが表象する
注意して映画を見てみると、そうした1990年代前半までに世に出た楽曲が、2001年の時点で既に一種の「スタンダード」的な存在として――もっとわかりやすくいえば「過去」の印象を纏う存在として配置されている図式も浮かび上がってくる。WTOへの加盟承認など、グローバル世界経済への参加によって急速な(実質的)資本主義化を遂げる直前の時代にあって、それらのレパートリーが既に、主に「ミレニアム以前」の世代によって歌い継がれる存在へと推移しつつあったのがわかる。
また、こうした「ノスタルジックな」楽曲使用のわかりやすい例として、大同に戻ったビンが社交ダンスの会場で耳にする広州拠点のシンガー=ガン・ピン(甘萍)の“潮湿的心”を挙げられるだろう。様変わりしてしまった大同の姿と、あの時代を生きた人々の抱えるそれでも「変わらない」(変わることのできない?)心性が、この曲によって表象されていると考えるのも可能だろう。
他方で、(2001年における)新世代の若者であるチャオらがディスコで踊りに興じる際に流れるデンマークのToy-Boxのヒット曲“BEST FRIEND”(1998年)や、スウェーデンのSMiLE.dkの“BUTTERFLY”(同年)を筆頭に、「変わっていく中国」のアレゴリーとして、比較的リリース年の近いダンスミュージック〜クラブミュージックのトラックが使用されているのにも気づく。中でも印象的なのが、2006年のチャオが長江を遡航する場面と、奉節でビンを探す場面に流される、四川省生まれのアーティスト=ワン・レイ(王磊)による2つのトラックだ。ハービー・ハンコックの“Cantaloupe Island”を引用した(と思われる)ブレイクビーツ風の“迎贤店”と、エスニックダブ風の“处女”は、新時代が幕開けし、それまでのムードがガラッと変わっていく雰囲気を実に見事に伝えている。
加えて、2022年の珠海で、高齢のインフルエンサーとともにダンス動画を撮影する際に流されるディスコ曲“ジンギスカン”の使い方もかなり面白い。あえて穿った解釈をするのなら、最新のテクノロジーによって制作・拡散されるこの「ベタ」なパフォーマンスをスマホの画面越しに覗き込む裏寂しさこそは、コロナ禍と技術万能時代がもたらした新たな疎外の形と考えるのも可能だろうし、いにしえの著名ディスコチューンたる“ジンギスカン”を介して異世代同士が即座に繋がってしまう現下のメディア環境のおかしみが、じんわりと滲み出ているようにも感じる。