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映画が映し出す「ありえたかもしれない未来」がもたらすもの
様々な視点の錯綜と相反。モーロが殺害されずに生き延びるという大胆な「if」の反復。様々な物語の可能性の跋扈。映画が映画であることのメタ的な宣言。ベロッキオは、これらの試みを通じて、単なる「反事実」を提示しようとしているのでも、どこまでいっても虚構的な存在であるほかない映画という存在の無力を、ニヒリスティックに再演しようとしているのでもないはずだ。
彼はむしろ、歴史を物語るという行為に内在する不可避的な権力性(これを「政治」と呼んでもいいだろう)への自覚を、一遍の映画をもって(として)真摯に上演してみせた。そして、それにより、本作の登場人物と地続きの抑圧や不安を抱える現代の観客にとって、「ありえたかもしれない」歴史と向き合うという営みがいったいどのような意義を持ちうるのかという問いを、類稀な力強さとともに提出しているのだと考えてみたい。

映画史家・評論家の四方田犬彦は、著書『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(中公新書 2015年)の中で、ベロッキオの『夜よ、こんにちは』を取り上げ、同作における件の「if」の描写について、次のように述べている。
(前略)現実にはあり得なかったモロの生還をスクリーンに描きだしてみせる。それは事実を歪曲することではなく、これまでさんざん反復されてきた事実報道の流れをひとたび中断させ、その停止状態のなかで、より高い次元に立って歴史認識へと向かうことに他ならない。
ここで求められているのは、歴史を静的に固定された事実の集合としてみるのではなく、ありえたかもしれない無数の分岐点を秘めた、潜在的な力の束として捉えなおすことである。この試みの途上にあって、事実は想像的なるものにおいて補完され、はじめて事件の本質をわれわれの前に浮かび上がらせることになる。
前掲書 P.167-168
『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』は、その長大な尺を用いて、「無数の分岐点」を様々な視点とともに提出し、そしてまた、ありえたかもしれない歴史の姿を描き出す。それは単なる「if」の無責任な提示ではないし、まちがっても、陰謀論のごときものの跋扈へと結びつくものではない。なぜなら一般に陰謀論者とは、たった一つの代替的な「真実」に向かって自ら激突していく裏返しの現実主義者だからだ。
映画とは、事実の一義的な解釈に収斂するものでもないし、また、映画のためにもそうしてはならない。映画は、現実のあり得たイメージを自らが表象することで、その現実に内在する偶有性を開花させ、「ありえた」未来を「ありえる」未来へと移行させていく能力を持つ。ベロッキオという優れた映画作家は、そうした行為がイタリアという共同体に巣食うトラウマを鎮め、人々を癒やし、アイデンティティを再帰的に構成せしめること知っているのだ。
『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』

2024年8月9日(金)よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次ロードショー
監督・原案・脚本:マルコ・ベロッキオ
原案:ジョヴァンニ・ビアンコーニ、ニコラ・ルズアルディ
原案・脚本:ステファノ・ビセス
脚本:ルドヴィカ・ランポルディ、ダヴィデ・セリーノ
出演:ファブリツィオ・ジフーニ、マルゲリータ・ブイ、トニ・セルヴィッロ、ファウスト・ルッソ・アレジ、ダニエーラ・マッラ
配給:ザジフィルムズ
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