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その選曲が、映画をつくる

『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』元首相誘拐事件を描いた長編作の「if」

2024.8.8

#MOVIE

「この物語はフィクションです」の「意味」

もう一つ、この“Porque te vas”がかかる場面に関連して、重要な指摘をしておきたい。上で述べたモーロの不安げな表情に続いて第一幕が終えられると、暗転後も音楽が鳴り続けるまま、次のようなメッセージが表示される。

実在の人物と物事は再構築された
様々な現実の要素は自由に再解釈された
非特定の人物との関連性は偶然である

要するに、実話を元にした劇映画一般でおなじみの注意書きが表示されるわけだが、これまで論じてきたベロッキオの作家性に鑑みるならば、これを単なる事務的なメッセージと受け止めるのは、従順が過ぎるというものだろう。私はここに、ベロッキオという映画作家の一つの倫理が謳われていると考えてみたいのだ。

そもそも、歴史的事実とは一体何なのであろうか。映画における物語の構築・再構築とは、あるいは「現実」の解釈・再解釈とはどんな行為なのだろうか。さらにいえば、歴史的事件を題材にしたとき、映画は何を語り得る / 得ないのか、あるいは、何を語るべき / べきではないのか……。

事件解決に奔走する内務大臣コッシーガ(ファウスト・ルッソ・アレジ)、首相アンドレオッティ(ファブリツィオ・コントリ)、書記長ザッカニーニ(ジージョ・アルベルティ)(左から右)。モーロと対立関係にあったアンドレオッティには、事件に関与していたとする噂も存在する。

象徴的なシーンがある。それは、この長大な作品の冒頭に置かれ、しかも、いかにも象徴的な意図を伝えるように、再び終盤に現れる。歴史的な事実として「赤い旅団」に無惨にも殺害されたはずのモーロが、「死刑」を逃れ病院で療養しているという場面がそれだ。つまりベロッキオは、自身の傑作『夜よ、こんにちは』で提示した型破りの「if」を、ここでも再度踏襲し、より大胆なことに、さらにリアリスティックな構築を行った上で提示しているのだ。

言うまでもなくこれは、歴史的事実とは全く異なるフィクショナルな描写だ。これは死に行くモーロが観たおぼろげな「夢」なのだろうか? しかしベロッキオは、『夜よ、こんにちは』での描写と同じく、そういったプロット上のギミック性を超えて、ある信念をもってこのシーンを撮っているように思われる。つまりは、(あまりにも当然のことだが)これから始まり、そしてこれまで見てきたイメージの連なりは、あくまで映画であること=ある映画作家の視点を元に構築された虚構であることを、これ以上にない詮無さで提示してしまっているのである。

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