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複雑な父子関係と「不気味なもの」
それにしても、何がブルースたちをここまで駆り立てたのだろうか。もちろん、上に述べたようなサウンド上の特徴が他の方法では再現不可能だったからという実際的な理由もあるだろう。しかし、ここで改めて考えてみたいのは、そのサウンド自体にブルースが何を感じ取っていたのか、ということなのだ。ここで、私なりに考えてみた結論を先に言ってしまおう。彼がなんとかして保存しようと悪戦苦闘したのは、ずばり「不気味なもの」であったのではないだろうか。
「不気味なもの」とは、ジークムント・フロイトが1919年の同名論文で提示した概念だ。かつて親密であったものが抑圧を経て再び姿を表す際、そこに発生する恐怖や不気味な感覚が、フロイトのいう「不気味なもの」である。言い方を変えるならば、幼年期に抱いていた恐怖や欲望が、成長するに従い理性の元に無意識のレベルに抑え込まれ、更にそれがなにかのきかっけと共に回帰してくるとき、私達はそこにある種の恐怖を感じるというのだ。
本作『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』の内容でこうした視点から注目されるべきは、幼いブルースが威圧的な父ダグ(スティーヴン・グレアム)の存在に強いストレスを感じ、更に、父が抱えているらしい精神的な問題に慄きながら若き日を過ごしている描写だろう。彼は、アルコールに依存する暴力的な父から自らの身を守るため、ある時から親密なコミュニケーションを遮断し、壁を築き上げた。そのような防御壁は、成人してからもなお彼の人間関係を知らず知らずのうちに規定し、恋人と深く精神的な交渉を持つことを避けさせる。更には、父の中に潜む精神の不和が自らにも受け継がれているのではないかという不安を遮断する役目も追っていたことだろう。

ブルースにとって、仲間とともに大音量のロックンロールに身を捧げ、ハイウェイを走り続ける存在として自らを任ずることも、まさにそのような潜在的な不安から自らを遠ざけるための方法だった。しかし、いざロックスターとしての成功を収め、ツアーの狂熱を通り抜けてふと独りになってみると、今まで抑圧していたはずの不安が、不気味な相貌とおぼろげな残響を伴いながら彼の内へと回帰してくるのだ――。
『ネブラスカ』に収められる曲を書きながら、ブルースは自身の幼年時代へと思いを馳せていた。今回の映画の中でも、かつて家族と暮らした住居の周りを車でうろつき、兄妹の遊び場だった草原や、丘に立つ邸宅の様子を回想しながら、父ダグへの恐怖と愛情が入り混じる複雑な感情が描き出される。
中でも、幼いブルースが父と共にチャールズ・ロートン監督によるフィルム・ノワール『狩人の夜』(1955年)を観に行くくだりは特に注目に値する。ジョンとパールという名の幼い兄妹が、彼らの継父となったロバート・ミッチャム演じる偽伝道師ハリーに追い詰められていく様を描いたその映画は、子供の目線を通じて歌詞を書くにあたって特に重要なインスピレーションを与えたという(その成果は、“Mansion on the Hill”“Used Cars”“My Father’s House”など自身の幼少期を題材としたいくつかの曲に聴くことができる)。
『狩人の夜』の後半で、ジョンとパールの兄妹は、ハリーの暴力から逃れて二人きりで川を下っていくが、心に染み付いた根源的な恐怖からはどうしても逃れることができない――つまり、ようやく訪れた一時的な平穏の中にあっても、不気味なものはいつでも回帰してくるのだ。ブルースと父ダグが同映画を鑑賞する描写からは、(あまりに残酷なアナロジーではあるが)そうしたジョンとパールの姿に自ら兄妹の数を、そしてハリーの恐ろしげな姿に、自身の父ダグの影を重ね合わせるブルースのまなざしが浮かび上がってくるようだ。
