ブルース・スプリングスティーンは、アメリカでの高い認知と評価に反し、日本の音楽リスナーにとってはやや「とっつきにくい」存在かもしれない。“Born In The U.S.A.”しか聴いたことがない、という方も多いのではないだろうか。
映画『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』は、そんなスプリングスティーンのディスコグラフィの中でも異色作といえるアルバム『ネブラスカ』制作中の1982年前後にフォーカスした伝記映画だ。
スプリングスティーンの内面をドラマ映画の形で描いた本作は、ファンの期待に応えるのみならず、氏について今まであまりよく知らなかった(編者のような)人たちにとっても、ブルース・スプリングスティーンという存在についての理解を深め得る映画となっている。
スプリングスティーンの大ファンとして、これまでも氏の魅力を熱弁してきた柴崎祐二が、同作とアルバム『ネブラスカ』を詳細に解説する。連載「その選曲が、映画をつくる」第32回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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キャリアの中で異彩を放つアルバム『ネブラスカ』
ブルース・スプリングスティーンが1982年9月に発表したアルバム『ネブラスカ(Nebraska)』は、彼の輝かしいキャリアの中にあって、ひときわ特異な存在感を放ち続けている。1980年発表の2枚組大作『ザ・リバー(The River)』、およびそこからのシングルカット曲“Hungry Heart”でヒットをものにし、更には同作のリリースツアーを大成功の内に終えた彼は、周囲から早くも次作を渇望されるロック界随一の期待の星となった。
しかし、彼は疲れ切っていた。降って湧いたようなスターとしての生活や、周囲からの期待への戸惑いもあった。それ以上に、猛烈な勢いで活動を続ける中で目を背けてきた自らの内に蠢く不安が行く末を曇らせ、快活な気分に浸り続けることを許してはくれなかった。彼は明らかに不調を抱えていた。今自分はここで何をすればいいのか。何を歌えば良いのか――。
ブルースは、そのような日々の中でもニュージャージーの自宅で新曲を書き溜め、寝室に持ち込んだ4トラックのテープレコーダーを使ってデモ音源の制作を試みる。自身のアコースティックギターと歌を中心に最低限の楽器が重ねられたそのデモテープには、殺人を犯す罪人や、人生の苦悩に囚われた市井の人々をモチーフとした歌、そして、自らの幼少時代を題材とした歌などが収められていた。
当初彼は、このデモを元にE Street Bandの面々を交えたロックアルバムを作るつもりでいたが、一部の曲を除いてスタジオでの作業は満足のいくものとはならなかった。それどころか、元のデモテープにあった特別なオーラのようなものが、スタジオ録音では雲散霧消してしまっていると感じられたのだった。そこで彼は、全くの異例な方法ながら、件のデモテープに収録されている音源をそのままリリースすることにした。各曲の内容もまた異例だった。そこには、周囲から強く期待されていたような快活なロックンロール曲ではなく、沈鬱で深遠なフォーク調の歌が多く収められていた。
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映画は『ネブラスカ』制作の様子を細やかに描く
『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』は、この『ネブラスカ』制作前後のブルース・スプリングスティーンを題材とした伝記映画だ。かねてより『ネブラスカ』に大きなインスピレーションを受けてきたスコット・クーパーが監督を務め、実力派のジェレミー・アレン・ホワイトがブルース役に抜擢された本作は、ブルースと彼の長年のマネージャー / プロデューサーであり親友のジョン・ランダウが制作に全面協力していることからもわかるように、まさしくブルース自身があの時代に辿ったであろう道のりを追体験できる優れた内容となっている。その構成からディティールに至るまでごく丁寧な作り込みがなされているのはもちろんのこと、ホワイト自身による各曲のパフォーマンスの「ブルースらしさ」も、長年のファンである私でさえ感服してしまうものだ。
冒頭を飾る“Born To Run”のライブ演奏をはじめ、『ネブラスカ』の制作と同時期に進行していた“Born In The U.S.A.”の録音シーンなど、ロック映画の常道に沿ったエネルギッシュなパフォーマンスシーンも散りばめられており、ファンならずとも大いに楽しめるだろう。その一方で、『ネブラスカ』という特異な作品を題材としていることからも察される通り、映画全体のトーンは、断じて明るくもポップでもない。全編を通じて重く、やるせなく、沈み込むような空気が充満しており、アルバム『ネブラスカ』のサウンドそれ自体と共鳴するようなものとなっている。
まさしく、本作の一番の見所も、『ネブラスカ』というアルバムが、ブルース自身にも明確に捉えることのできない不思議な力を纏っていく様を見事に描き出している点にあるといえるだろう。その「不思議な力」は、まさに「ムード」と呼ぶ他ないような曖昧模糊としたもので、ブルース本人をはじめ、先述のジョン・ランダウ(ジェレミー・ストロング)や共同プロデューサーのチャック・プロトキン(マーク・マロン)らも、それを捕まえることの難しさに当惑する他ない。
映画内でも詳しく描かれているように、ブルースがデモテープの録音で使用したのは、ごく簡素な機材だった。このレコーダー=TEAC 144は、(たった4トラックといえども)マルチトラック録音の技術をプロフェッショナルの音楽制作の現場から解放し、個人で楽しめるものにした革新的な製品だった。しかしながら、あくまで個人向けの民生機としての性格が強く、同機で制作した音源をそのままメジャーレーベル発のレコードのマスターとして使用するなど、全くもって横紙破りの行為だった。
更に、ブルースの寝室で即席のエンジニアを務めたのが、彼の長年の友人兼ギターテクニシャンのマイク・バトランであったという事実も、映画の中ではきちんと描かれている。当然ながら彼は録音の専門家ではなく、テープスピードを誤って設定するなど、様々な操作がにわか仕込みで行われた(伝記本などによると、ヘッドのクリーニングも行っていなかったらしい)。その上、ミックス用のモニターも安価なものだった。同じく映画内で触れられている通り、彼らは一度浸水したパナソニック製の大型ラジカセでミックスを行った。もちろん、記録用のメディアも、プロ用のメディアではなく、ブルースが近所のドラッグストアで買ってきた安価なコンパクトカセットだった。
だが――いや、「だから」というべきか、そのデモテープのサウンドには「何か」が宿っていた。エコープレックスを介した深い残響の向こう側からおぼろげな表情とともに立ち現れる「何か」は、当時世界一の技術を誇る録音スタジオで行われたセッションでは、すっかり消え去ってしまった。彼らはデモテープを元になんとか市販に耐える音源を作り出そうとするが、うまくいかない。最終的にはアトランティックスタジオでのマスタリング作業を経て、ようやくブルースの目指す音が完成した。
