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背筋が凍る“Mack The Knife”
映画は次いで、ゴールディンの未発表映像作品の一部を映し出す。彼女が自ら回すカメラの前で、着飾った二人の老親がダンスに興じている。ゴールディンは、母の姿を見て「とてもきれい」と感嘆する。おそらく彼ら自身が選曲したのであろうダンス用の曲は、アーサー・マレー・オーケストラの演奏する“Mack The Knife”だ。
お気に入りの曲に乗って踊る両親をおさめたこの映像は、一見、娘と両親の和解を写し取った朗らかなホームビデオのようにみえるが、そのような生易しいものでは決してない。私は、背筋が凍るような恐ろしさを覚えた。
今ではすっかりスタンダード曲として定着している“Mack The Knife”だが、その歌詞は、ナイフを懐中に忍ばせたある犯罪者の帰還を歌ったものであり、さらにいえば、この曲は元々はベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』のために書かれたものである。そのことを思い出した遠端に、かつてゴールディンが『性的依存のバラード』を『三文オペラ』から触発されて制作したという事実が、あまりにも哀しさに満ち、それ以上に、呪縛ともいうべき何かに突き動かされた末のことであったのではないだろうかと気付き、私は強く動揺したのだ。そして、対象の「ありのまま」を鋭く切り取り、観るものにその瞬間に立ち会わせながらもどこか戦慄を催させるようなこの感触は、そもそも、ナン・ゴールディンという写真家の作品が持つ美しさ、恐ろしさと強く響き合うものであることに気付かされるのだった。

映画の冒頭で、ゴールディンと監督のポイトラスは、次のような会話を交わしている。
ゴールディン「人生を物語にするのは簡単 でも正しい記憶を保つのは―― とても難しい」
ポイトラス「どういう意味?」
ゴールディン「物語は実際の記憶と違う 実体験にはニオイや汚れがあって 単純な結末なんか存在しない」
「実際の記憶が今の私に影響を及ぼしている 見たくないものが見え 平穏を奪われる 記憶を解き放たなくても その影響は存在してる 私たちの体の中に」
映画のラスト。ルシンダ・ウィリアムスの“Unsuffer Me(私を苦しめないで)”がエンドロールとともに流れてくるとき、私達もまた、「私たちの体の中に存在しているその影響」からの解放を強く願うとともに、その存在が、決して私達個人の中だけでなく、社会全体に根をおろしていることを理解するだろう。日常と悲劇、美と殺戮は、このドキュメンタリー映画がえぐり出すように、分かちがたく大勢の生を貫いているのだと。
『美と殺戮のすべて』

2024年3月29日(金)より全国ロードショー
監督・製作:ローラ・ポイトラス
出演・写真&スライドショー・製作:ナン・ゴールディン
配給:クロックワークス
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