2022年に京都芸術大学在学中、『救われてんじゃねえよ』で「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞した作家・上村裕香。2025年には、受賞作のほかに『泣いてんじゃねえよ』『縋ってんじゃねえよ』の2編を追加収録したデビュー作『救われてんじゃねえよ』(新潮社)が刊行され、各所で売り切れが続出するなど反響を生んでいる。
主人公である、難病を持つ母を介護する高校生・沙智は、その事実だけ見れば「ヤングケアラー」(※)と言われる存在だろう。しかし、この本を読んでいると、上村は沙智が「ヤングケアラー」というレッテルを安易に貼られることを拒否しているかのように感じる。
読了後、「うゎあ」と言ってしばらくぼんやりとしてしまった。笑える部分も、どうしたらいいんだよという部分もあるこの小説は、「最終的に、あの時頑張ったことが救われたね」というようなきれいな感想を抱かせてくれない。むしろ、沙智が経験していることを、美談や苦労話として消費しようという力に対抗してくる。
上村が『救われてんじゃねえよ』で描いたのは、「難病を持つ母親」や「ヤングケアラーの高校生」ではない。怒りも悲しみも喜びも感じながら、1人の人間として日常生活を送るそれぞれの姿だ。
実際に上村に話を聞いてみて印象的だったのは、軽やかな語り口と、自身の芯の強さが、絶妙なバランスで同居していたことだ。このバランスは、『救われてんじゃねえよ』の中に流れているトーンにも反映されている。上村は、小説を書く上で何を大切にし、どんな願いを込めているのか。『救われてんじゃねえよ』の内容をベースにしながら、話を伺った。
※家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どものこと。2024年6月、子ども・子育て支援法等の一部を改正する法律において、子ども・若者育成支援推進法が改正され、「家族の介護その他の日常生活上の世話を過度に行っていると認められる子ども・若者」として、国・地方公共団体等が各種支援に努めるべき対象にヤングケアラーが明記された。
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「ヤングケアラー」が浸透する以前 / 以後を横断した小説
ーまずは、『救われてんじゃねえよ』を書こうと思ったきっかけを教えて下さい。この小説は、上村さんの高校生の頃の実体験がもとになっていると伺っています。
上村:ラストの主人公の沙智が、母親の体を持ち上げようとして2人で倒れ込んじゃうみたいな部分ですね。その時は、小説みたいにテレビから小島よしおのネタが流れてきたわけではなかったんですが、すごく笑っちゃって。なんであの時笑ったんだろう、みたいなことを考え始めたのがきっかけでした。

ーあのラストの部分は、私もすごく笑ってしまいました。
上村:嬉しいです。
ー当時を振り返ってみて、どうして笑ってしまったんだと思いますか?
上村:私は受験生だったし、バイトもしていたのですごく疲れていて。それで、母は「トイレ行きたい」って言っているし、2人とも限界状態の深夜3時に起きた出来事だったんです。例えば、文化祭の前とかで、友達と一緒に準備しながら「終わんないよ」って限界状態で笑っちゃうみたいなのあるじゃないですか。ああいうテンションで、笑っちゃったんじゃないかなと思います。そのシーンが、タイトルの『救われてんじゃねえよ』にもなっています。
―インパクトがあるタイトルですよね。
上村:沙智は小島よしおのネタで笑ってふっと気持ちが軽くなって、ちょっと救われた気になってるんです。でも、沙智を俯瞰的に見て、「いやいや、さっちゃん、別に救われてへんよ」みたいにツッコんでいるイメージでした。

2000年佐賀県佐賀市生まれ。京都芸術大学大学院在学中に『救われてんじゃねえよ』で第21回『女による女のためのR-18文学賞』大賞受賞。
ー今はめちゃめちゃ笑っているけど、でも別に現状が変わるわけじゃないよ、みたいな感じなんですかね。
上村:そうですね。
ー今回単行本化にあたって、既に発表されていた2編にプラスして、『縋ってんじゃねえよ』を書き下ろされていますが、この3編の中で、どんどん沙智が家族との距離をうまく取れるようになっていると感じました。表題作以外の2編を書いた時に考えていたことはなんですか?
上村:『泣いてんじゃねえよ』は『救われてんじゃねえよ』の約1年後に書いて、さらにその1年後に『縋ってんじゃねえよ』を書きました。その中で、だんだん沙智も大人になっていったんですよね。高校生の頃の沙智は、周りにカウンターパンチを打ちたいような子だったんですが、インターン先で自分のことを理解してくれそうな大人に出会ったり、就職してから、自分と同じような生きづらさを抱えている存在を見たりする中で、沙智の中にも心境の変化があったと思うんです。家族との関係性もそうなんですが、介護をしていたという事実だったり、「ヤングケアラー」というレッテルに対する距離感みたいなものも、この子の中で固まっていくだろうな、みたいなことは意識して書きました。
ー沙智は、今だったら絶対に「ヤングケアラー」と言われる子ですよね。
上村:そうですね。これは指摘されて気付いたんですが、表題作の『救われてんじゃねえよ』には「ヤングケアラー」という言葉が出てこないんです。沙智が高校生の頃は、「ヤングケアラー」という言葉はあったかもしれないけれど、社会にすごく浸透しているわけではなかった。そういう状況の中で、沙智は生身の人間として生きていたけれど、大学に進学してから何年か経ったら、社会に「ヤングケアラー」という言葉が浸透して、沙智も「ヤングケアラー」というラベリングをされるようになるんですよね。
「ヤングケアラー」という言葉ができることによって、社会的な認知が広まって、支援が増えていくみたいな功の部分って結構あると思うんです。でも沙智は、「ヤングケアラー」という言葉が広まった時にはもうすでに「ヤングケアラー」ではなくて、あまり功の部分は受けていない。すごく狭間の、曖昧なところにいるんです。だから沙智にとって「ヤングケアラー」という言葉は、遠いし、複雑な思いの方が多いみたいな感じなんだと思います。
ーいとこの恭介さんと、ミルクボーイのネタのように「ヤングケアラー」についてのやり取りをしている部分では、沙智はそこまで嫌な気持ちを抱いてはいないように描かれていました。
上村:そこはめっちゃ好きな場面なんです。このやり取りでは、「ヤングケアラー」に対してレッテルを貼ってはいるんですが、定型的な貼り方じゃないというか。高校の担任の佐藤先生だと、「ヤングケアラー」という言葉を、悲劇のヒロインに対して使っているようだけど、恭介くんは喜劇的な視点でその言葉を使っていて。沙智はそれに対して、自分もちょっと笑って、その貼り方には乗れるみたいなところがあるんですよね。ラベリングをしているんだけど、そのラベリングが逆に沙智にとって心地よくなってるみたいな、変なシーンで……好きです!

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喜劇として描くことで見えてくる、現実
ー恭介さんとのやり取りは、読んでいるうちに印象が変わっていく、不思議なシーンでした。小島よしおさんのネタが流れるところもそうですが、この作品には笑える部分がちょこちょこ挟まっていますよね。それによって、この作品が悲劇的になりすぎないようになってるなと感じました。
上村:そうですね。喜劇的な視点を入れるということは結構意識していました。
ーそれは、これまで小説を書いてきた中でも意識していることだったりしますか?
上村:はい。大学時代に教えてもらっていた先生が、喜劇作家をしている方で。その先生の「悲劇と喜劇は、起きている出来事自体は一緒なんだけど、視点が違うんだ」という持論にすごく影響を受けています。チャールズ・チャップリンの言葉でも、「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」というのがありますよね。
『救われてんじゃねえよ』で言うと、「母親を介護している女子高生」という沙智の状況は、近くで見ると悲劇的なんです。でも沙智の生活の中には、母親とのブルーレットのやり取りみたいなクスっと笑っちゃうようなところがある。そういう喜劇的な視点を借りることで、分かりやすくはないけど現実の物語が見えてくるんじゃないかと思って、意識的に「喜劇を書くぞ〜!」と思っていました。

ー笑える部分があるからこそ、これが現実なんだな、というのをより感じられた気がします。大学の先生以外で、影響を受けた作家や作品はありますか?
上村:大学生になってから読んだ、松尾スズキさんの『クワイエットルームにようこそ』には、すごく影響を受けています。精神病棟の中で起きている出来事は、ずっとハチャメチャで悲惨なんだけど、見てる視点としては喜劇的なんですよね。
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創作の起点は「怒り」の感情
ー確かに『クワイエットルームにようこそ』は、悲惨なのに笑えるシーンが多いですよね。影響を受けていると聞いて、すごく腑に落ちました。ちなみに、上村さんが小説を書く時は、どういう要素を起点にして書かれていますか?
上村:日々自分が生きている中で、「めっちゃムカつく」みたいな、怒りを起点にしていることが多いと思います。
ーどういうことに怒りを感じますか?
上村:『泣いてんじゃねえよ』を書いていた時は、世の中に存在している「ヤングケアラー小説」みたいなものを読めば読むほど、「そんなに簡単じゃねえんだよ」って怒っていましたね。あとは、『救われてんじゃねえよ』について、「実体験ですか?」と聞かれると、「実体験ではあるんですけど、全部ではなくて」みたいに答えることが多いんですよ。ケアの体験を語ることは、ナラティブアプローチ的なケアになるとは思うんですが、とても個人的なことなので、それって正しいの? みたいに考えることもあって。そういった、日々自分がもにょっと思ったり考えたりしていることを小説にしています。

ー私も先程、「実体験なんですか?」とお聞きしたんですが、実は、そういうとても個人の内的なものを聞いてしまうのはどうなんだろう、と悩んでいた部分がありました……。
上村:でも、この物語は私の実体験をもとにしていた部分があるからこそ、読者の方が「実は私もそういう体験があって……」と語ってくれたりするので、いい面もあると思っています。
ー上村さんが開示しているからこそ、近しい境遇の人たちにしっかりと物語が届き、開示してくれたりするんですね。それをお聞きすると、沙智が自分の企画した『ヤングケアラー王』というバラエティ番組を作りたいと思っているところと、上村さんが小説を書いているということは、構造的には重なる部分もあるのかなと思ったのですが、どのように小説が届くといいなと思っていますか?
上村:小説は綺麗事ばかり書かなくていいというか、漂白化された世界の中ではこぼれ落ちてしまう部分を書ける媒体なので、例えばヤングケアラーのドキュメンタリーとかでは表現できないリアルさを届けられたと思っています。
不謹慎だと思われるかもしれないですが、沙智は「ヤングケアラー」というものを笑い飛ばしてくれる恭介くんみたいな存在に救われている部分もあって、それが『ヤングケアラー王』を作りたいと思っているところにも繋がっているんですよね。沙智が『ヤングケアラー王』を作りたがっているのは、マジでバカで好き(笑)。なので、「最近あんまり笑ってなかったけど、この小説を読んで笑った」みたいな感想を聞くと、めっちゃ嬉しいです。
ー笑ってもらいたいという思いが強いですか?
上村:そうですね。「笑った」みたいなのって、何個かに分類されると思っていて。「最近笑ってなかったけど、笑った」と言ってくれた人は、沙智と同じような生きづらさを感じているんじゃないかと思うんです。本を読んでいる中で沙智が笑っているのに触れて、それと同じ状況に自分を重ねて笑うことで、沙智が小島よしおのネタを見た時と同じ感じで、ふっと心が軽くなるというか。
その一方で、「笑っていいのかなと思いながら笑った」と言われることもあります。特に、沙智の親世代ぐらいの人は、今までこういう視点で介護する女の子の話に触れたことがないからこそ、沙智は笑っているけど、当事者と遠い自分が沙智のように笑っていいのか? と感じるみたいで。
でも、「笑っていいのか?」と思わせてる時点で、この物語のメッセージは伝わっていると思っています。悩むということは、本心では笑いたいわけじゃないですか。
