学生も社会人も、新しい環境に一歩踏みだす4月。変化にワクワクしながらも、その先の将来の不透明さに漠然とした不安も感じてしまう。実際、若者の5割はアンケートに「やりたいことがない」、3割は「わからない」と答えている。(※)
FRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」は、自分らしさをなかなか出し切れないコロナ禍を乗り越え、新たなチャレンジを始めるフレッシャーズを応援するプロジェクト。今回はオリエンタルラジオの藤森慎吾に、デビュー1年目の自分に送る手紙を書いてもらった。
誰もが羨むようなロケットスタートと裏腹に、相方との不仲や「一発屋」という世間の評価に苛まれる日々。彼が「自分らしさ」を見つけることができたのは、タモリや堺正章など、先人たちの何気ない言葉だった。
編注:「コロナウイルス5類移行後に関するアンケート調査」における、学生への質問回答より。
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「芸人になりたい」というのが人生初の衝動。就活を蹴って養成所へ
ー藤森さんはどんな学生時代を過ごされましたか?
藤森:何をやっていいのか非常に曖昧でしたね。とりあえず東京に行きたいと思って東京の大学に入りましたけど、いざ3、4年生になったときに何をやればいいのかまるでわからなかったです。意外と、学生時代ってそんなものかもなと。
ー芸人を目指すようになるのはいつ頃ですか?
藤森:バイト先で相方(中田敦彦)と出会って、この人と一緒なら芸人の道でいけるかもと思ったので、僕から誘いました。4年生になるときに養成所に通いはじめたので、まさに就職活動の真っ只中でしたね。
ーそれまでは普通に就職して会社員になる予定だったんですか?
藤森:漠然とそう思ってました。明治大学という、割といい学校に通わせてもらってたので、それなりの進路を選ばなくちゃとも思ってましたし。でも、正直ピンとこなかったというか、心からやりたいものは見つからなかったんです。「芸人になりたい」というのが人生で初めての衝動というか。「何がなんでもこれをやりたい」という思いで相方を誘って、就活を蹴って養成所に行きました。

1983年生まれ。中田敦彦とオリエンタルラジオを結成し、2004年にNSC(吉本総合芸能学院)へ。同年、リズムネタ「武勇伝」で『M‐1グランプリ』準決勝に進出して話題となり、デビュー当初よりブレイク。バラエティ番組を中心に活躍する。2016年、自身がボーカルを務める音楽ユニットRADIO FISHによる楽曲“PERFECT HUMAN”で『NHK紅白歌合戦』にも出場。芸人としてだけではなく、俳優、歌手、声優などその活動は多岐にわたる。2020年、自身のYouTubeチャンネルも開設し、人気を博している。2021年より吉本興行所属から独立し、フリーとなる。
ー会社員になろうとしていたところから芸人を目指すというのは、急激な方向転換ですよね。
藤森:元々芸能界への憧れは強かったんですよ。木村拓哉さんがすごく好きで影響されてたり。相方からいろいろ教えてもらうまでは、正直お笑いが好きでもなかったし、興味もなかったんで。側から見たらね、そんなやつが成功するんかいっていう感じだと思うんで、本当に申し訳ないんですけど。
ー出会った頃の中田さんは「お笑いで食っていくぞ!」という感じだったんですか?
藤森:それがそうでもなくて。あっちゃんは僕との前にもコンビを組んでて、大学の学園祭で漫才をやってたんです。そのコンビは相方の就活があるから解消になったそうで、あっちゃんは宙ぶらりんの状態になっちゃったんですよ。僕はたまたまその学祭のビデオを見て、「これ面白いね、僕もやりたいよ」と。最初はいくら誘っても断られました。「お前が言うような甘い世界じゃないから諦めろ」という感じで。でも最終的にはあっちゃんが押し負けたという。

ー藤森さんもお笑いに詳しかったら、中田さんの「甘い世界じゃない」に頷いていたかもしれないですよね。
藤森:そもそもやりたいと思ってないかもしれない。相方はそれまで地下ライブにも出ていたから、10年やっても食えない先輩を見ていたし、吉本の養成所も年間2000人近く入るけどそこから1組売れるかどうかということも調べてて、だけど僕は「あっちゃんと僕でやればいけるっしょ!」でしたから(笑)。
でも相方が「やるなら本気でやるぞ」と言ってからは、目の色が変わりましたね。そこからは怖かったです。「生半可な気持ちは一切捨てて、今日からお笑いのことだけ考えろ」と毎日お笑いのDVDを渡されて、それをノートに全部書き起こす宿題をやらされました。
ー鬼教官ですね。
藤森:「いろんなツッコミを分析してこい」とか、本当に先生と生徒みたいでした。
22歳の芸歴一年目の自分へ
ありがたいことに芸歴1年目としてはとても順調なスタートを切らせてもらいました。デビュー1年目から冠のレギュラー番組を持たせてもらったり、CMに出たり、たくさんのファンの方にも応援してもらったりと、身に余るお仕事の数々をいただきました。
手紙の序文。藤森慎吾直筆の手紙全文は4月10日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示される(詳細はこちら)
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「トライアンドエラー」は、失敗ではなく成功のための助走。無駄なことは一つもなかった。
ー2004年には養成所在学中ながら『M-1グランプリ』の準決勝に進出します。
藤森:あっちゃんが「養成所は教わる場所じゃなくて、1年を通したオーディション会場だ」と言って、入学する前に100本ネタを書いてきたんです。正統派の漫才をそれだけ練習して入ったんで、それなりに自信はあったんですけど、養成所の先生方のお眼鏡に全くかなわないんですよ。来る日も来る日も新しいネタを試すんですけど、全然褒められなくて、あっちゃんも心が折れかけて。

藤森:僕が「どうせ何やってもダメなんだから、怒られる覚悟でこれをやってみよう」と、100本の中でも一番変なネタを提案したんです。あっちゃんはやりたくなさそうだったんですけど、もう破れかぶれで披露して。そしたら先生がはじめて僕らの目を見て「可能性を感じる」と言ってくれたんです。そこからブラッシュアップして「武勇伝」が出来上がって、それで『M-1』も勝ち上がれました。その間、僕は何もしてないんですけど(笑)。
ーコンビ結成のときもそうですが、中田さんは綿密なリサーチと分析をするがゆえに、壁に直面することも事前に察知して足踏みしてしまうところがあったのかもしれないですね。
藤森:そうですね。真面目すぎるから、一度エラーが出てしまうとパニクってしまう部分があったのかもしれないです。
ーそこで藤森さんが「やってみればいいじゃん!」と鼓舞するという。
藤森:なんの危機感もない軽いノリのやつがいるっていうね(笑)。ちょうどいいバランスだったのかもしれないです。でも、やっぱりネタを100本作った相方がすごいんですよ。褒められなかったネタも失敗ではなくて。相方は「トライアンドエラー」という言葉をよく使ってましたけど、失敗じゃなくて成功のための助走なんです。無駄なことは一つもなかった。
ーなんでもすぐに調べられる今の世の中、この先の人生がどうなるかわかった気がして、逆に歩き出せなくなってしまうこともありそうです。そういうときに、藤森さんの「いいじゃん!」という姿勢は重要ですよね。
藤森:そういうノリって、若くないとできないことだと思うんです。家庭を持ったり年齢を重ねると、新しい分野に挑戦するのもどんどん難しくなっていくので。若いときはなんでもできたなと思うから、羨ましいです。
芸人になる前も、いろんなことに手を出しては引っ込めたりしましたけど、それもこの道に辿り着くためのプロセスだったと思います。もし将来が見え過ぎちゃうんだったら、起業してみたらいいと思いますね。僕らもベンチャーみたいなものだし、最近自分で会社やってる同世代と集まることが多いんですけど、やっぱりすごく面白い。キャバクラのボーイをやってた人が年商何百億の会社をやっていたり、キャリアもそれぞれで。やってみた先に何が待っているかは、誰にも予測できないですからね。一度の失敗を恐れすぎて慎重になるのは、選択肢を狭めてしまうことでもあるので。

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コンビ仲が悪くてキツかったり、自分に自信が持てなくて負のループに陥ったことも
ーオリエンタルラジオはデビュー1年目から順調に売れていきます。
藤森:そこは相方も全く予期せぬ出来事だったみたいで、「お前と組んでよかった」と言ってくれました。最低でも5年から10年は下積みが必要と考えてたみたいなんですけど、僕は「意外とすぐ売れちゃうんじゃない?」と言ってたんです。そしたら本当に1年目で僕が言った通りになっちゃって。歯車がたまたま上手く噛み合ったんでしょうね。周りの環境もあったし、自分たちの努力の成果でもあったのかなと思います。
ー一方で、その頃の自分に向けた手紙には「側から見れば順風満帆な芸人人生のスタートだったと思いますが、その裏では大変な苦悩がありましたね」と書かれています。
側から見れば順風満帆な芸人人生のスタートだったと思いますが、その裏では大変な苦悩がありましたね。相方や事務所のおかげでたまたま手にした栄光。実力も実績もないところですぐに仕事は減り、劇場のお客さんも少なくなっていきました。周りからは一発屋と揶揄され、どんどん不安は募り自信もなくなっていました。次第にコンビ仲も悪くなり、喧嘩ばかりの日々でした。
藤森慎吾の手紙抜粋(「#あの頃の自分に届けたいコトバ」supported by FRISK より)
藤森:テレビに出るとか、有名になるという目標が、本当にすんなりクリアできちゃったんですよね。ゴールデンで番組を持たせてもらったり、『エンタの神様』でも毎週ネタをやらせてもらえたし、街を歩いてても声をかけてもらえるようになって。当然うれしかったんですけど、それを持続させるのも難しかったし、周りがどんな目で僕らを見ているのかが気になるようになったのも苦痛でした。

藤森:結局、僕らは武勇伝というネタだけで世に出たので、トークスキルもなければ大喜利もモノマネもできない。次第に「あいつら何が面白いんだ?」という風潮も出てきて、自分に自信が持てなくて負のループに陥りましたね。実力通りにしっかり番組も終わっていきますし、レギュラーも減っていって、怖かったです。このまま終わっちゃうのかな、忘れ去られるのかなと。
ー芸人人生の中で一番しんどかったのはその時期ですか。
藤森:しんどさも何種類かあって、仕事が減っていくのもそうだし、スケジュールが過酷すぎるとかもあるんですけど、コンビ仲が悪いときが一番キツかったですね。口もきかないし、喧嘩が絶えないという時期がデビューして3〜5年目くらい。一度売れたあとのくすぶっていた時期でした。いまだにその頃を思い返すと嫌な気持ちになります。
ー『オールナイトニッポン』生放送中に殴り合いの喧嘩になったこともありましたよね。
藤森:あれは氷山の一角というか(笑)。しょっちゅう殴り合いしてましたから。それくらい仲が悪かった。心身ともに疲弊しましたね。