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『エミール・ガレ:憧憬のパリ』展レポート。故郷との関係に揺れるガレの実像を知る

2025.3.25

#ART

「もの言うガラス」の主張

もうひとつのコラムのコーナーでは、万博での成功を元に花開いた、ガレとパリ社交界との繋がりが紹介されている。人脈形成の上で非常に重要な役割を果たしたモンテスキウ伯爵との出会いも見逃せないが、作品として気になるのは、黒色ガラスを使った壺『ペリカンとドラゴン』だ。

壺『ペリカンとドラゴン』エミール・ガレ 1889年頃、サントリー美術館蔵

モチーフを白と黒で彫り表し、光と闇、善と悪を対比させているのだが、作品のまわりをぐるっと一周して見てみると、実はドラゴンの方がペリカンよりだいぶ大きいことに気付く。真っ黒い羽が器を包み込むように広げられており、悪の強大さに対して善は少数派のようだ。本作と同一モデルを、ガレはウィリアム・オブライエン(アイルランドの民族運動指導者)夫妻に献呈しているという。これは本展で初めて知ったことだが、ガレにはとても社会的で、人道主義的な一面があったようだ。

会場風景

万博と万博の間の1894年、「ドレフュス事件」という19世紀フランスの世論を二分する事件が起きた。現代日本の私たちにはなかなか想像しづらい事だが、あるユダヤ人将校がドイツのスパイであると投獄された事件について、冤罪なのか有罪なのか、当時多くのフランス国民は自分の意見を表明し、論戦を続けていた(のちに1906年に冤罪だと決着)。ガレはその際、早い時期からドレフュスを擁護し、軍部の陰謀による冤罪だと主張する立場をとった。1900年の『パリ万博』でも、アピールするような演出や、関連作品を何点か制作するなど、工芸家・経営者としてはだいぶ「攻め気味」の意思表示をしていたようだ。その姿勢はパリでは好意的に受け止められたものの、地元ナンシーでは反感を買い、ガレはナンシーを代表する芸術家でありながら、ナンシーでは「誰も人前では挨拶すらしてくれない」状態になってしまったという。奇しくも事件と同じ1894年に、ガレはナンシーに自社のワンストップの製造工場をオープンしており、それまで以上に地元に腰を据えた矢先のことだ。己の信念や正義感に従うガレの姿はたくましいけれど、かなり辛い状況だっただろうと想像できる。

聖杯『無花果』エミール・ガレ 1900年、国立工芸館蔵

第3章で展示されている聖杯『無花果』という作品には、そんなガレの人道的な想いが込められているように感じた。聖杯とは、キリスト教の聖餐式で使われる、人々のための犠牲となったキリストの血(としてのワイン)を飲むための杯のこと。杯の下部にはヴィクトル・ユゴーの詩文「人は皆同じ父親から生まれた息子なのだから。同じ眼からこぼれ落ちた涙なのだから」が刻まれている。つたい落ちるふたつの涙のような雫は、片方だけ赤く染まり、血のように見える。同じ眼からこぼれ落ちたものの、片方だけが血を流していると取れる。キリスト教世界では無花果の持つ意味が色々とあるため、作者の意図を断じることはできないものの、なぜ誰かが犠牲になったり、一方だけが傷つけられるのか? そんな問いかけが、悲しみや憤りとともに発せられているようだった。このように詩や文学の一説を作品に刻み込んで意味を響かせあうガレの作品を、ガレは「もの言うガラス」と呼んだという。

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