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生きるっていうことに集中していくと、同時に「死」っていう視点が上がってくる。(マヒト)

floatan:たとえば絶対無理なんだけど、1回死んで、走馬灯みたいなものの中から眺め直す……なんていうか、懐かしさしか感じられないような状態に全員がなって、それから日常に戻るっていうことがあれば、何かいろいろ変わるんじゃないかなっていう考えがあって。観てる人が気づいていてもいなくても、GEZANのライブにはそれがある気がするんですよね。それは本来はその場にいないと感じられないことだと思うけど、ヴィンセント・ムーンさんが撮った映像には収まっていて、ヴィンセントさんは幽霊みたいな視点を持ってる人なんじゃないかと思いました。揺らぎも含め、死んだ人が撮ってる、みたいな。
マヒト:めちゃめちゃ有機的な人だけどね、ヴィンセントは。あの人は明らかに天才で、自分がカメラを向けられたときにこれまであまり感じたことのない、動物としての肯定する力みたいなのがあって。ヴィンセントは生き物として何かに虚無ったり絶望したり全然してない。でも、すごく有機的に血が回ってる感じが与える印象が、「幽霊の視点みたい」っていうのは実は筋としては間違ってなくて。ものすごく人間的で有機的な人が高まってつき抜けていくと、両軸の逆側に振れて、すごく冷たくて、人間らしいっていうものから一番遠くなってくっていう。似たニュアンスをちょっとだけ感じたことがある人でいえば写真家の佐内(正史)さんだった。

マヒト:死んだ人の視点みたいなものっていうのは、さっき言ったように、その生命力みたいなものが落ちていくほど出てくるっていうよりは、命が錯乱したり炸裂したりする方に向かっていくほど冷たく透明になっていって、孤独になっていくっていう感覚で。それは、実は武道館公演にも期待してることなんですよね。みんなに観に来てほしいっていう話をSNSでして、拡張する方に、全開に開いていってる過程を自分で恥ずかしいなって思う気持ちもあるんですけど、でも同時に、ものすごく騒がしいところに入っていくときにしか得られない静寂みたいな感覚があって。その2つの向かっていく先っていうのは、実は到着点はそんなに遠くない気がする。生きるっていうことに集中していくと、同時に「死」っていう視点が上がってくる。

マヒト:ロックバンドには多分、本来はそういう力があって。今の形骸的なロックバンドの、みんなで集団行動みたいなこととはちょっと別の話で、そもそもすごく衝動的で、肉体的で、儀式的。いわゆるThe Rolling Stonesとかが始まったようなところにあったもので。でも、それをプロパガンダにも利用できるんだって誰かが嗅ぎつけて、集団の旗振りに使いやすいとわかられたぐらいから、変わっていったと思うんですよ。だけど、そもそもロックバンドが持っていた儀式的な性質は多分変わってなくて。それは自分でも感覚的にはわかりながら、考え方、イメージに輪郭を持たせられなかったんだけど、『FRUE』だったり、『橋の下』(※)だったり、そういう祭りで根っこのところを嗅ぎつけていくと同じ話をしてるんだなっていう瞬間がたくさんあったんですよ。
※橋の下世界音楽祭:愛知・豊田で2012年から開催されている音楽フェス

マヒト:そもそも言葉とか音とかって、何か具体的な実態がないのに人に影響を与えるっていうこと自体、すごくサイケデリックなことで。その意味でやっぱフィリップ・グラスとかテリー・ライリーとか、コマーシャルとは無縁のところから始まった音楽とロックはそもそも同じ、いとこだったんですよね。それがビジネスに発見されていろいろ変わっていったし、自分はその後のタイミングから音楽を始めたので、源流に向かっていく旅みたいなところがまずあって。
それは武道館に期待してるところでもあるんですよ。すごく大衆的なことが、すごくサイケデリックなことと同居してるっていう。日本の中では、ポップに開いていくことと、ただひたすら内側の自分に気づいていくことは2択になりやすいけど、それは同居して存在できるっていうところに、トライしたい。徹底的に、孤独なりに、自分が集めて拡張した「みんな」っていうものの中に飛び込みに行くっていう、テーマはそこにある。
自分の声とかイメージが「みんなのもの」になったときが、一番自分を引きで見れる瞬間で、自分の胸の中にあるものが何なのかっていうのが自分でもわかるはずなんです。その行き来の伸縮みたいなところに、一番興味があるんですよね、今回は。