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KMが見つめる、「非効率」な人生とは。SNSの外にある、本当の豊かさについて語る

2025.12.18

#MUSIC

音楽を聴く、本を読む、映画を観る──。こうした行為は、効率や即効性を重んじる現代において、「コスパが悪い」「タイパが悪い」と映るかもしれない。特に映画やドラマを1.5倍速で見たり、まとめサイトで要点だけを読む人々が増えた時代に、KMは静かにこう語った──「非効率的なカルチャーは、余白を思い出させてくれる」と。

KMは、LEXや(sic)boy、JJJ、Daichi Yamamotoなどのプロデュースを手掛けるプロデューサー / DJだ。エレクトロニカ、ロック、ファンク、ダンスミュージック……ジャンルを越境し、10代の頃からクラブDJとして多様な音楽を深く吸収し、現在シーンの中でも独自の立ち位置を築いている。

恵比寿の街に響く、唸るエンジン音。遠目からでもひときわ目を引く真っ赤な車体。愛車のフェラーリで、KMはパートナーのLil’ Leise But Goldとともに現れた。飄々と柔和に語る彼だが、その言葉は時折静かな熱を帯びる。さまざまな経験を経たからこその説得力が、KMの言葉の端々から感じられた。無駄や余白の中にある価値を、音楽や人生を通じて彼自身の経験から語る。

スキー場、テレビ、プールサイド。自然と音楽に触れた幼少期に培われた、「聴く体力」

さまざまなジャンルを取り入れた音楽を作り出すKM。その原点は北の地にあった。幼少期の彼は、スクランブル交差点が象徴的な東京・渋谷区と、白銀で覆われた大地、青森県相反する2つの土地を行き来する生活を送っていた。

KM(ケーエム)
東京出身のプロデューサー / DJ。名前の由来は、自身のイニシャルと好んだDJ AMへのリスペクトを込めて字面をなぞらえたことから。ヒップホップに根ざした音楽スタイルを保ちながら、さまざまなジャンルとクロスオーヴァーを試みる果敢なスタイルや制作姿勢で注目を浴びる。

KM:父親が青森出身で、小学校の頃は東京と行き来してたんです。青森ではスキーやスノーボードをしてました。スキー場だと音楽が流れてるじゃないですか。リフトに乗ってる時に、EAST END × YURIが流れてて。初めて聴いたラップの曲だった。

そう語るKMは、自然と音楽のエリート教育を受けていたのかもしれない。東京に戻ると、自宅のテレビからはMTVが流れていた。洋楽やさまざまなジャンルの音楽に自然と親しんだ。

KM:子どもの頃から、これはヒップホップで、これがハウスで、これがテクノっていうのはなんとなくわかっていました。今でも覚えているのは家族で海外旅行に行った時のこと。プールサイドにTLCやMobyの曲が流れていたんです。英語の曲やダウンテンポのインストゥルメンタルって子どもの耳には入ってこない場合が多いんですけど、MTVに触れてたから、そういう曲のかっこよさもわかってた。聴く体力が育ってたのかもしれないですね。

音楽を聴く体力」。この言葉を、彼はさらりと口にした。だが、それは後のKMを語るうえで欠かせないフレーズになる。音楽に関してはませていたKMが本格的に音楽へとのめり込んでいったのは、私立中学校へ進学した年の夏のことだった。

KM:中学に入って何をやろうかなと考えていたんです……。

目に飛び込んできたのは、スクラッチをするバトルDJの姿だった。

KM:深夜にMTVを見てたら、当時流行ってたバトルDJの大会の模様を放送してた。そこで見たスクラッチは絵的にかっこいいと思って、「これやりたい!」って親に話したんです。僕が自分から何かをやりたいって言ったのは初めてだったんですよ。だから親も戸惑いながらもターンテーブルを買ってくれました。

渋谷川近くにあったDJ機材を扱う店でターンテーブルとミキサーを購入した。最寄り駅である渋谷駅から学校のある吉祥寺への通学路は、サブカルチャーが根付いた街を毎日通ることを意味していた。そこでさまざまな音楽を「掘る」ことを覚えていく。

KM:学校帰りに吉祥寺のレコード屋、たとえばwarszawaでインディーロックをディグった時期もありました。吉祥寺から下北へ行ってスタバでお茶して、ディスクユニオンやJET SETへ行く。そこで終わる日もあれば、裏原に服を見に行ったり。渋谷ではCISCOやDMRに通ったり。試聴機が毎週水曜か金曜に変わるんです。そこで新譜をチェックして。今思うと、めちゃくちゃ恵まれた環境で、最大限カルチャーに触れて育ちましたね。

DJの始まり。16歳で「聴く」側から「鳴らす」側へ

DJを始めると、徐々にクラブでプレイをしたい気持ちが芽生えた彼は、普及し始めたネットコミュニティでその情報をかき集めた。

KM:clubberiaってあるじゃないですか。DJを始めてからあそこの掲示板に書き込んで、どうやってクラブに行くのかを聞いたりしてましたね。それでゲストを取ってもらってクラブに行くようになったんです。まだ15歳とかそれくらいだったかな。家から恵比寿や六本木は自転車で行けたんで。

渋谷にCISCOをはじめとしたレコ村が存在し「年確(年齢確認)」が厳しくなかった時代の話だ。そうした時代の中で、KMは次第に「聴く側」から「鳴らす側」へと歩みを進めていく。

KMがプロのDJとなった夜──それは先輩が飛んだ夜だった。六本木のクラブイベントへ遊びに行くようになると、先輩DJと知り合った。もともとクラブやディスコのDJは徒弟制度のような側面が強かった。先輩DJに連れられ西麻布の老舗にも出入りするようになる。

KM:レコ持ちをしていて、先輩の選曲をメモったりしながら勉強をしていたんです。ある日、いつも通り行ったら先輩がいないんですよ。飛んじゃってて。「普段からいつでも回せる準備はしておけ」って言われてCDをたくさん持ってたので、一晩回すことができた。そのときにもらった初のDJのギャラが2000円。めちゃくちゃ嬉しかった。今でもすごく覚えてます。

それまではノルマがあり、ギャラというギャラをもらったことがなかった。だが16歳にしてDJブースに立ち、客をロックする。一見華やかに見えるそのキャリアの裏には、過酷な現実があった。

KM:今振り返ると、とにかくパワハラがひどかった。オーナーの機嫌が悪いと、DJをしててもグラスが飛んでくる。それを避けながらプレイしてました(笑)。あとは、勢い余って前歯を折られたりもしていましたね。

KMはこういったエピソードを「愛のある指導」だったと回想する。理不尽が横行していた時代の、生々しい現実だ。このときの経験をKMは曲にしている。

よく言われたよお前じゃ無理だ

詰められたバーカンの裏側

前歯も折られた

“Lost 2(Ftheworld)”より

KM:泣きながらDJしてましたからね。でも最終的には一目置いてくれて。めちゃくちゃ詰められた翌日も普通にDJしに行ってたし。技術よりも気合い重視の、問題の多い時代でした。今の若い子には絶対におすすめできないですけど(笑)。

まるで笑い話のように回想するが、当時は地獄のような日々だったことは想像に難くない。今はそれを通過点として受け止めているように聞こえた。なにせその先輩たちとはいまだに繋がっていると言うのだから。しかし、そのつらい日々を耐えながら、大学に進学してもDJを続けた。子どもも授かった。気がつけば24歳になっていた。

KM:慌てて就職して、それが内装の会社でした。それでも、週末の夜はDJを続けてたんです。リミックスを作ってはSoundCloudにアップしていたら、今の『POP YOURS』のラインナップを組んでいる人が声をかけてくれて。それまでDJの人脈しかなかったのが、イベントを作る人ともつながった。DJする場所も違うシーンに変わっていったんです。

そしてKMは重大な決断をする。

KM:1回曲作りにチャレンジして、音楽を極めようと思って、会社を辞めました。それが26歳くらいですね。

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