珍しく親から東京に来ると連絡があり、テレビを付けて久しぶりにワイドショーを見てみる。流行のパン屋と大盛りの店をいくつか書き留めて、東京っぽいものはこれで十分だなと思い、さっき付けたばかりのテレビを消す。
いつのまにか上京してからの生活にも慣れ、都会の流行に目を惹かれることも、同世代の活躍に対して敵意を剥き出しにすることも減った。代わりに増えたのは、未だに100円で缶コーヒーが買える自販機を見つけた喜びや住んでなかったら訪れない飲み屋で過ごす時間で、当時の夢と今の自分の居場所が例えかけ離れていたとしても、「思えば遠くに来たもんだな」とそれなりに受け入れられるようにもなった。
Helsinki Lambda Clubのボーカル橋本薫が発表したソロデビューEP『日記』は、そんな誰の日常にもある出来事を愛でている。「遠回りが多かった」と20代を振り返る橋本だが、それは後悔ではなく、踏んできた場数の説得力としての自負。ロックバンドのボーカルのソロが弾き語りではなく打ち込みなのは、1人の人間としての至極当然な音楽的嗜好の変遷。音楽との出会いと、上京前後の生活、ソロに至った理由を伺った。
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本当に趣味を分かち合える誰かに飢えていた平凡な福岡時代
―ソロとしての最初の作品『日記』が打ち込み中心で意外でした。ロックバンドのボーカルのソロアルバムとして、勝手に弾き語りを想像してたんだと思います。資料には「小学生の頃に出会ったSUM 41が音楽にのめり込むきっかけ」とありますが、最初に、橋本さんの音楽遍歴を伺いたいです。もちろんSUM 41が好きな人は多いと思いますが、改めて公言されているのは珍しい印象もあります。初めてSUM 41を知ったのはどんなきっかけだったのでしょうか?
橋本:SUM41に出会ったのは小6の終わりころです。それまでもBackstreet BoysとかNSYNC、あとマイケル・ジャクソンが好きで、音楽自体はずっと身近にありました。
ある日、兄の机の上にSUM41の『Does This Look Infected?』が置いてあって、ジャケットに惹かれて聴いてみたら、1曲目の”The Hell Song”で衝撃を受けたんです。「ギターリフかっけぇ」って。すぐに「バンドやりたい!」って思いました。
音ももちろん好きだったけど、ボーカルのデリックのスパイクヘアとか服とか、全部含めてかっこよかった。自分にとって「バンドって最高だな」って思わせてくれた最初の存在ですね。

2013年夏に千葉で結成された橋本薫(Vo, G)、稲葉航大(B, Cho)、熊谷太起(G)による3人組バンドHelsinki Lambda Clubのボーカル。2023年には結成10周年を迎え、3枚目のフルアルバムとなる『ヘルシンキラムダクラブへようこそ』をリリース。2024年にはアメリカ『SXSW』への出演やイギリス・ブライトンのフェス『THE GREAT ESCAPE』を含む初のイギリスツアーを達成。同年11月にはEP『月刊エスケープ』をリリースし、12月より全国11カ所を回るライブツアー『冬将軍からのエスケープ」を開催。2025年9月に自身初のソロ作品『日記』をリリースし、2026年には初のソロツアーを開催。
―僕も初めて経験した海外バンドのライブは、上京してから観たSUM 41でした。それまではテレビやネットが情報源で、TSUTAYAのA〜Zコーナーを片っ端から聴くような時期もあったんですが、橋本少年はどんな音楽遍歴を辿ってきたのでしょうか?
橋本:いや、ほんと似たような感じですよ。CDショップに行って、半額セールのときにまとめて借りたりとかしてました。あと、うちは中学の途中くらいまで親がケーブルテレビを契約してて、MTVが見られたんです。だから、CDショップとMTVの両方から音楽の情報を得てました。中学時代は特に、MTVから受けた刺激が大きかったですね。
―福岡で過ごした学生時代、音楽の趣味が合う友達はいましたか?
橋本:福岡の田舎だったので、音楽の話ができる人は本当に数人しかいなかったです。ただ、サッカー部に家庭が裕福な友達がいて、その子を強引に巻き込んだこともありました(笑)。小学校の頃からCDを聴かせてボーイズグループを布教したり、パンクブームのときも一緒に聴いたり。自分はまだギターも持ってなかったけど、そいつが先にベースを買ったのでちょっと触らせてもらったりしてました。
高校に進学しても、音楽が好きな人が多くはなかったから、完璧に趣味の合う人とバンドを組んだわけではなくて。隣の学校に超パンクスでヤンキーの友達がいたから、その影響でザ・スターリンなんかもコピーしていました。初めてのライブでは、ザ・スターリンやSex Pistols、SUM41、blink-182の曲をやりました。その友達は鋲ジャンを着てたかな(笑)。
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憧れた東京に正解はなかった。どこにいても少数派だった日々で磨かれた音楽的感性
―東京に来てから、福岡にはなかった「お前もこれ分かるか」みたいな共通の感覚や場面を感じることはありましたか?
橋本:千葉の大学に通っていたので、東京の中心にいたわけではないものの、もちろんいろんな人がいていろんな音楽を聴いてるんだろうなとは思ってました。でも、自分が子どもの頃にネットで感じていた、「東京に行けば同じ感覚の人がたくさんいるんだろうな」という期待は、実際に出てきてみると全然違いました。やっぱり自分の好きなものはマイノリティーなんだなっていうのを実感したんです。

橋本:例えば、スケートカルチャーが好きで、freshjiveというブランドがすごく刺さっていたんです。地元にいるころは、SupremeとかStussyと並ぶくらい有名だと思っていたんですが、東京に来てみたら全然知ってる人がいなくて、アパレル関係の人に聞いても「知らない」って言われて。
そういう経験を通して、音楽に限らず自分に刺さるものって、案外一般的には刺さっていないんだなって改めて感じました。
―僕も大学進学のタイミングの上京組で「東京ならみんなアクモン好きでサマソニに毎年行ってるんだろう」みたいな期待があったんですが、実際はそうでもなくてちょっとがっかりしたんです。最終的には「そういうものか」と時間が経って受け入れられたんですが、橋本さんも似た経験はありますか?
橋本:あるかもしれない。もっと独善的だったというか。自分が好きなものを盲目的に知らない人にも伝えようとして、「なんでこんなにいいのに知られていないんだろう」と不思議に思っていました。
おそらく、自分ぐらいの人間でも良さを感じ取れるんだから、他の人だったらもっと簡単に分かるはず、と思っていたのかもしれません。でも最近になって、そういう気持ちはだいぶ薄れました。人それぞれ感じ方も違うし、育ってきた環境も違う。当たり前のことなんですけど、ようやくそれが腑に落ちてきた気がします。
―橋本さんの生い立ちは、自身の音楽に影響していると思いますか?
橋本:作品にダイレクトに影響しているかというと難しいですけど、僕は千葉で生まれて、5歳まで神奈川の茅ヶ崎に住んでたんですよ。だから育ちは福岡だけど、住んでいる当時はむしろアウトサイダーとしての意識が強かったです。いろんな場所を転々としていたからこそ、特定の音楽にのめり込むというより、いろいろなものを取り入れたのかもしれない。自分なりに「これもいい、あれもいい」と触手を伸ばして自分自身が形成されてきたように思います。
そういう意味で、振り返ってみると自分たちがデビューした頃も同世代のシーンの中で、どこか距離を置いている自分がいたなと思います。自分の距離の取り方って、昔からあまり変わっていないのかも。自分が完全に福岡で生まれ育っていたら、人間性とか、出てくるものもまた違っていたかもしれないです。
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気づけばバンドで10年超。迷いも葛藤も積み重ねたら確かな説得力になった
―2013年に結成したヘルシンキは13年目を迎えようとしています。以前、とある有名バンドのボーカルの方が初めてレーベルと契約して当時の物価で毎月20万円の給料をもらったときに「やっていけるかも」と感じた、という話をインタビューで読んだことがあります。橋本さんがHelsinki Lambda Clubとして「やっていけるかも」と思えた瞬間はありましたか?
橋本:ちゃんと「続けていけるんだろうな」と感じられたのは、10年を過ぎてからなので、本当にここ最近なんですよ。20代の頃は自信があるようで自信がなく、セールスもうまくいかないし、メンバーのこともいろいろあって、「やりたいけど、どうやって続けていけばいいんだろう」と悶々とすることが多かったです。

橋本:でも10年続いたという事実を一度受け止めてみたときに、「10年続けられたんだよな」と思えたんですよね。自分の才能を疑ってしまいそうになることもあるけど、「好きだ」と言ってくれる人が確かにいるということに改めて気づけたんです。自分の中から湧く感情というより、積み重ねてきたデータみたいなものを見て思う感覚。「不安になってもしょうがない、不安なままでも続けてこられたんだし」と思えるようになりました。
―明確に「これだ」という瞬間があったわけではなくて、山を登っていて、ふと振り返ったら「こんなに登ってたんだ」と気づくような感覚みたいなことですかね。
橋本:そうそう。自分たちのバンドの歩みは決してわかりやすいものではないかもしれない。それは、自分自身をちゃんと理解できていなかったからで、自分の特性をうまく把握できていなかったことが、プラスにもマイナスにも働いた。もっと自分を理解できていたら、リスナーにも仲間にも、よりまっすぐな形で向き合えたのかもしれません。でも、そういう遠回りも含めて、今の自分につながっているんだと思います。
―ヘルシンキとして紆余曲折あったということだと思いますが、音楽を仕事にしていく中で、理想や夢はどう変化していきましたか?
橋本:現実と理想のあいだを行き来しながら、その距離感や憧れが少しずつ変わっていきました。音楽が仕事になっていく中で、日本のバンドをロールモデルに設定しても、自分たちの立ち位置や状況によって、思うように理想に近づけないこともあった。本音では、「あのバンドみたいになりたいな」とか、「もっとセールスの数字が伸びてもいいのにな」みたいな気持ちを抱えることもあったんです。
特に20代の頃は「デカい夢を持ちたい」という気持ちがすごく強かったから、行き詰まった時こそ逆に、もっと遠い存在、例えば海外のバンドとか、自分とはまったく違う環境のアーティストを意識するようにだんだんなっていったんです。

―なるほど。なんで日本のバンドって、海外のバンドの話をするんだろうって、ずっと不思議だったんです。影響を受けてるのは分かるけど、なんか腑に落ちなくて。でも、普通に会社で働いていても、現実的に達成できそうな120%くらいの目標を会社に設定されると思うんです。それにだんだん嫌気が刺してくると、自分とは関係ない遠くの存在や場所に想いを馳せることってありますよね。
橋本:セールスにはどうしても数字がつきものだから、自分の思い描く通りにやっても、結果に落ち込むことはある。若い頃は特に、一つの行動で大きく世界が変わるんじゃないかと思ってた節があったんだと思います。
アルバムを出すたびにありがたい反応もある一方で、期待した反応がないこともあった。その繰り返しが積み重なって、「どうせいいものを作っても何も変わらない」とふてくされそうになることもありましたけど、今年になってそれは完全になくなりましたね。ソロを作ったことで、結局は積み重ねしかないと実感したんです。
一発で何かを変えるより、続けていくことに意味がある。やりたいことをやっているという積み重ねが最終的に説得力になるし、共鳴する人との関係も強くなる。だから今は、評価に振り回されず、ただ続けるしかないなっていい意味で割り切れてます。