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「抵抗の物語であると同時に、わたしたちの日常の物語でもある」
2年に1度開催される『シュバックフェスティバル』は前回、2023年の5月に開催された。つまり、2025年のフェスティバルは、2023年10月のイスラエル軍ガザ侵攻以降、初めての開催となる。そこで、今回のフェスティバルでは、『パレスチナ・ポスター芸術展』と題された、1960年代から現代に至るまでのパレスチナの政治ポスターを並べた展覧会や、パレスチナ人コミックアーティストの作品を紹介する展覧会、あるいは、パレスチナ系アイルランド人であるサミ・アブ・ワルデ(Sami Abu Wardeh)によるスタンドアップコメディ『PEACE DE RESISTANCE』が行われていた。いったい、パレスチナのスタンドアップコメディとは……?

客席数100席数あまりの劇場に足を運ぶと、満員の観客を前に、ダンス、歌、ストーリーテリング、そしてジョークなどを交えながらパフォーマンスが行われていた。そのストーリーは、コルシカ島で発見された「Revolution Today」と書かれた紙を発端とするファンタジックなもの。この紙は、その運ばれる場所へ革命をもたらし、この紙を巡って、アルジェリア戦争を背景としたパレスチナ人男性と、アルジェリア人女性とのロマンスが語られていく。そして、アルジェリアでの革命が一段落すると、男はパレスチナへと向かう……。随所に笑いを交えつつ、チャプターごとのジョークコーナーではイギリス人をコケにし、会場は多くの笑いに包まれる。
アジア人である筆者は、この公演にとって部外者であるにも関わらず、同じ舞台を見て、同じように笑うことで、どこか一体感が感じられるのがおもしろい。そしてカーテンコールには「FREE FREE PARESTINE」のコールが起こり、観客席からもレスポンスが飛ぶ。「しかし」という逆説ではなく、怒ることも、笑うことも、コールを叫ぶことも、彼らにとってはどれも地続きなのだろう。
パレスチナにおける表現について、アリアは次のように語る。
アリア:正義と人間性への信頼が崩壊しつつあるいま、フェスティバルを開催するとはどういう意味なのでしょうか? かつて揺るぎなかった芸術への信念が懐疑へと砕け散ったとき、私たちはどのように、再び芸術を信頼できるのでしょうか? わたしは、芸術を「抵抗」として「記録」として、そして「主張」として信頼しようと思います。破壊のさなかでも、芸術は、確かな希望を抱き続けるのです。
2025年の『シュバックフェスティバル』は、私たちにとってこれまでで最も明確な意志をもったキュレーションとなりました。そして、観客からも「これまでで最も大胆だった」という声が寄せられました。
同じくパレスチナの人々によって上演された『APPLICATION 39 (FOR THE 2048 GAZA SUMMER OLYMPICS)』という作品は、第1次中東戦争から100年後の2048年、ガザにおいて夏季オリンピックを誘致するというストーリーのブラックコメディ演劇。2040年になってもいまだにイスラエルに完全支配されているガザ。そこで、どのようにオリンピックが開催できるだろうか? スタジアムをどこにつくるのか? 選手村はどうすれば……? そんな話し合いが次々と展開されていく。2025年の戦争が、ストーリーの中で「あの時代」のこととして語られつつ、その瓦礫が一切片付けられていないまま、という設定も印象深い。
パレスチナに対する、イスラエルの圧倒的な暴力と、国際社会の無理解がまん延し、出口の見えない状況のなかで、アリアが考えたのが「物語ることの意味」だったという。
アリア:メディアは、わたしたちが殺されているときにしか注目しません。しかし、わたしたちアラブ系の人々を「哀悼に値しない存在」(引用者注:思想家のジュディス・バトラーの用語。社会構造によって不可視化・匿名化されてしまう人々を指す。なお、バトラー自身はユダヤ人であるが、イスラエルの占領や暴力を一貫して非難してきた)
とするようなメディアの語りに、わたしたちははっきりと異を唱えます。そのため、2025年の『シュバックフェスティバル』におけるもっとも重要な行為は「私たち自身の物語を語りつづけること」でした。それは、抵抗の物語であると同時に、わたしたちの日常の物語でもあるのです。
