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その選曲が、映画をつくる

映画『メイデン』レビュー 此岸と彼岸を越境する音楽

2025.4.18

#MOVIE

第79回ヴェネチア国際映画祭で「未来の映画賞」を受賞し、「新時代の『スタンド・バイ・ミー』」とも評される映画『メイデン』。この静かで幻想的な野心作を、評論家・柴崎祐二が「弱さ」と「まぎれ」をキーワードに読み解く。連載「その選曲が、映画をつくる」第25回。

※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

「弱さ」と「まぎれ」に満たされた黄昏の映画

昨年8月に逝去した編集者・著述家の松岡正剛は、主著の一つ『フラジャイル 弱さからの出発』の冒頭部で、「弱さ」という概念について、次のように要約してみせた。

「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、些細でこわれやすく、はかなく脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。

――『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫 P.16

該博な知識を持つ松岡が、様々な現象・文化的表象の中にそうした「弱さ」の姿を発見していく同書には、日本で「逢魔が時」とも言われる黄昏の時間=トワイライトタイムを扱った章も設けられている。曰く――。

黄昏が異様な気分をつくるのは、「自分」というはっきりしたものが夕闇に『まぎれて』ファジーになってくるからである。

風景も『まぎれる』。それとともに行き交う人々の顔もわかりにくくなり、自分も他人もだんだん『まぎれ』、両者ともにゆっくりと区別を失い、ついには互いに溶暗してしまう。

――『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫 P.144 (※『』は筆者による)

昼と夜が互いに混じり合い、光と闇が互いを冒していく黄昏時に、「弱く」曖昧なものがにわかにうごめき出す。私達はそのうごめきに拐かされ、この世ならぬものに出会う。こんな話を有り体のクリシェとして訝しく思う大人たちにしても、自らの幼年期〜青春期の記憶の奥深くへと旅してみれば、黄昏時が湛えた異相を再確認せざるをえないだろう。橙色と藍色の混じり合いがあたりを満たしていくあの時間、ふと彼方へと誘われ、二度と戻ることの出来ない世界へと迷い込んでしまったように感じた――そういう経験を一切持たないなどという人は、おそらくほとんど存在しないだろう。

あの、弱々しくおぼろげで、それでいて目眩のするほど強い誘引力を持った「まぎれ」の感覚。昼と夜の二分的な時間の中に久しく身を置くうちに忘れてしまいがちな黄昏の不思議を、繰り返し描き続け、ときに大きな成功を収めてきたのが、光と時間のアートフォームであるところの映画という存在だ。カナダのインディーズフィルム界の新鋭監督グラハム・フォイが手掛けた初長編作品『メイデン』もまた、そのような成功の系譜に列せられるべき、「弱さ」と「まぎれ」に満たされた黄昏の映画といえる。

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