第79回ヴェネチア国際映画祭で「未来の映画賞」を受賞し、「新時代の『スタンド・バイ・ミー』」とも評される映画『メイデン』。この静かで幻想的な野心作を、評論家・柴崎祐二が「弱さ」と「まぎれ」をキーワードに読み解く。連載「その選曲が、映画をつくる」第25回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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「弱さ」と「まぎれ」に満たされた黄昏の映画
昨年8月に逝去した編集者・著述家の松岡正剛は、主著の一つ『フラジャイル 弱さからの出発』の冒頭部で、「弱さ」という概念について、次のように要約してみせた。
「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、些細でこわれやすく、はかなく脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。
――『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫 P.16
該博な知識を持つ松岡が、様々な現象・文化的表象の中にそうした「弱さ」の姿を発見していく同書には、日本で「逢魔が時」とも言われる黄昏の時間=トワイライトタイムを扱った章も設けられている。曰く――。
黄昏が異様な気分をつくるのは、「自分」というはっきりしたものが夕闇に『まぎれて』ファジーになってくるからである。
――『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫 P.144 (※『』は筆者による)
風景も『まぎれる』。それとともに行き交う人々の顔もわかりにくくなり、自分も他人もだんだん『まぎれ』、両者ともにゆっくりと区別を失い、ついには互いに溶暗してしまう。
昼と夜が互いに混じり合い、光と闇が互いを冒していく黄昏時に、「弱く」曖昧なものがにわかにうごめき出す。私達はそのうごめきに拐かされ、この世ならぬものに出会う。こんな話を有り体のクリシェとして訝しく思う大人たちにしても、自らの幼年期〜青春期の記憶の奥深くへと旅してみれば、黄昏時が湛えた異相を再確認せざるをえないだろう。橙色と藍色の混じり合いがあたりを満たしていくあの時間、ふと彼方へと誘われ、二度と戻ることの出来ない世界へと迷い込んでしまったように感じた――そういう経験を一切持たないなどという人は、おそらくほとんど存在しないだろう。
あの、弱々しくおぼろげで、それでいて目眩のするほど強い誘引力を持った「まぎれ」の感覚。昼と夜の二分的な時間の中に久しく身を置くうちに忘れてしまいがちな黄昏の不思議を、繰り返し描き続け、ときに大きな成功を収めてきたのが、光と時間のアートフォームであるところの映画という存在だ。カナダのインディーズフィルム界の新鋭監督グラハム・フォイが手掛けた初長編作品『メイデン』もまた、そのような成功の系譜に列せられるべき、「弱さ」と「まぎれ」に満たされた黄昏の映画といえる。
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親友の死、拾った日記帳……若者の様を静かに描く
あらすじを紹介しよう。ところはカナダのカルガリー郊外。親友同士の高校生=コルトンとカイルは、豊かな自然が残る環境の中、スケートボードをしたり川遊びをしたり、若者らしい無軌道さと純真さで、気の向くままの毎日を過ごしている。そんなある日、衝撃的な出来事が起こる。黄昏時に起きた列車事故で、カイルが突然にこの世を去ってしまったのだ。深い喪失感に打ちひしがれるコルトンは、同窓生のタッカーと衝突したり、授業を突然放り出してしまうなど不安定な日々を送るが、ある日、かつてカイルとともに散策した川べりで、一冊の日記帳を拾う。
それは、人付き合いが苦手で学校の雰囲気にも馴染めない女子生徒=ホイットニーの日記帳だった。ある日ホイットニーは、幼い頃からの友人であるジューンとの仲違いをきっかけに、一人森の中へとさまよい歩いていき、ついには失踪してしまう。しかし彼女はそこで、少し前に亡くなっていたはずの少年=カイルと出会い、二人は連れ立って森や町の中を遊歩する……。
美しい自然と若者たちの戯れの様を驚くべき鮮度で捉えたショットの数々、16mmフィルムならではのざらついた画質、細密でダイナミックなサウンドスケープ、此岸と彼岸を行き来する大胆なプロット、無名俳優たちが繰り広げる説得力に満ちた演技――。第75回カンヌ国際映画祭への招待や、第79回ヴェネチア国際映画祭での「未来の映画賞」受賞をはじめとした好評も頷ける、実に高潔な野心に満ちた作品だ。
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サウンドスケープの思想を感じさせる音楽使用
音楽の使い方も、気鋭作家によるインディーズフィルムらしいみずみずしさと大胆さに貫かれている。静謐な画面との見事な調和を見せるメインモチーフとして、現代音楽とポピュラー音楽を横断する個性的な音楽家ジョン・ハッセルの2009年作『Last Night the Moon Came Dropping Its Clothes in the Street』から表題曲をピックアップするところからして、既にただならぬものを感じさせる。シンセサイザーと変調されたトランペットの響きが、作品全体の基調的なトーンを巧みに下支えしているのがわかるだろう。本編を通じて、環境音と音楽の境界が曖昧になっていくような聴覚・視覚体験が味わえるが、これはまさに、制作サイドがアンビエントやサウンドスケープの思想に相当自覚的であった証拠だと思われる(※)。
※エンドタイトルで使用される楽曲“God’s Chorus of Crickets”も、まるで変調された聖歌のような響きを持ったアンビエント風のトラックだが、実際には、音楽家のジム・ウィルソンがコオロギの鳴き声を収録し、その音源を極端にスローダウンしたものだ(とされている)。一見無秩序に感じられる自然現象の中に、超越的なハーモニーの存在を垣間見せるかのような本トラックの響きは、人間と非人間的存在、人工と自然という二項対立をじっくり溶かしていく本作の筆致と、見事なまでに合致している。
他にも、タッカーが大音量でカーステレオから流すEDM曲(Metrik“AUTOMATA”)や、コルトンがヘッドホンで聴くハードコアパンク(Jailpocket“Cardboard Cockring”)、コルトンのヒップな友人たちが聴くUSインディー系の楽曲(Tonstartssbandht“Breathe”)等、各登場人物のキャラクターに合わせたマニアックなトラックも効果を発揮しているが、やはり特筆すべきは、トワイライトな「弱さ」や「まぎれ」「あわい」「此岸と彼岸」というモチーフと共鳴する2つの曲だろう。
1つ目は、カイルとホイットニーの二人が、森の中でイヤホンを分け合って音楽を聴くシーンだ。ホイットニーが別の場面でメタリカのTシャツを着ていることからも察されるように、どうやら彼女はハードロック〜ヘヴィメタル系バンドのファンらしく、このシーンでも、スウェーデンのハードロックバンド=EUROPEの代表曲“The Final Countdown”を再生する。静けさに覆われた映画の中で、この選曲はやや場違いの感を抱かせもするが、注目しなくてはならないのは、1つのイヤホンで二人が曲を聴きながら歌詞を口ずさんでいるという設定ゆえ、観客にオケそのものは聴こえず、結果的に彼らのアカペラが画面内に響くのみ――という図式である。
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ハードロック曲のアカペラが示唆するもの
ここで、改めて同シーンに至るまでの一連の森の中の遊歩を振り返ると、彼ら二人が、出会いの場面から一切会話をかわさずにいたことに気づくはずだ。それまで私達観客は、何よりも双方が全く声を発さないという描写を通じて、彼ら二人ともが既にこの世のものではない「ゴースト」なのかもしれないという推察を行っていたところに、“The Final Countdown”といういかにも世俗的なヒットチューンの「歌」が突然もたらされる、というわけだ。
なんとも不意を突かれるような演出だが、ここでは一体何が成し遂げられているのだろうか。「やはり彼らは死んではいなかった」とでも思わせたかったのだろうか。そんなわけはないだろう。むしろその反対だ。ここでの突然の歌声は、彼らが既に無言のまま黄昏時を通り抜け、いまや完全に「あちら側」へと至ってしまったことを表していると考える方がよほど面白いし、この映画に沿った解釈だと思う。
それまで、一言も言葉をかわさなかった彼らが、「詞」を突然発するこの瞬間に、画面に捉えられている世界もまた、ゴーストたちのみが認識可能な世界の描写へと決定的に転換している――このシーンは、そのことを(ユーモア混じりの)ショッキングな形で宣言しているのだ。つまりは、「人間の」言葉の(ない)世界から「ゴーストの」言葉の(ある)世界への劇的な移行=リアリティラインの劇的なシフトアップが、突然の“The Final Countdown”のアカペラに託されている、ということだ。
そう考えてみれば、彼ら(ゴースト)がイヤホンを通じて聴いているはずのオケのサウンドが私達(此岸の者達)には聴こえない――という演出も、こうした多層的なリアリティラインの配置の効果をより一層強めていると感じるし、ここで歌われる「詞」の内容それ自体にも、異なる世界(へと旅立った彼ら)の存在が示唆されているように思われる。デヴィッド・ボウイの“Space Oddity”に触発されて書かれたという“The Final Countdown”のこの歌詞が、彼らの「此岸からのお別れ」と重ね合わせられているのは明白だろう。
一緒に旅立とう
でもやっぱりお別れなんだ
いつか戻るかもしれない
わからないけど 地球に
地上から旅立つ
地上から
変わらないものなんてないだろ?
これが最後のカウントダウン
――“The Final Countdown”(※日本語版字幕より)
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此岸と彼岸を、音楽が橋渡しする
2つ目は、本編の始まりと終盤に配置されたとあるポピュラーソングの使用例だ。映画の冒頭で、コルトンとカイルが建設途中の家屋を訪れ、イタズラ放題をして遊んでいる。そこに、小さなカセットデッキが置いてある。再生ボタンを押してみると、カントリーシンガー、ロジャー・ミラーが歌ったスタンダードナンバー“Dear Heart”が流れてくる。その音を背後に地下を覗き込むと、息絶えて間もない黒猫の遺体が見つかる――。
次にこの曲が登場するのは、本編終盤、カイルとホイットニー(のゴースト)二人が森の遊歩を経て同じ工事中の家屋へと出向く場面だ。画面外から手だけが伸び(それが具体的に誰の手なのかはあえてぼやかされている)、件のカセットデッキのボタンを押す。再生されるのは、やはりあの“Dear Heart”である。カイルとホイットニーの二人は、風に吹かれながら静かにその音に聴き入る(聴き入っているように見える)。
愛しい人よ
君がここにいてくれたら
この夜も温まるのに
愛しい人よ あれからもう一年
君が僕の前から 姿を消してから
ひとり暮らしの部屋に ひとり用の食卓
まったく淋しい街だ
だけどもうすぐ 君にキスをする
玄関のドアの前で
愛しい人よ わかっていて
僕は君の腕を離さない
もう二度と
――“Dear Heart”(※日本語版字幕より)
“Dear Heart”は、1964年公開の同名映画のためにヘンリー・マンシーニが書き下ろしたバラードで、アンディ・ウィリアムスやジャック・ジョーンズ、フランク・シナトラをはじめ、数多くの歌手が歌っているスタンダード曲だ。本作で使用されるロジャー・ミラーのバージョンは、数あるパフォーマンスの中でも特に朴訥とした味わいを湛えたもので、カセットテープと簡素なデッキの音質も相まって、なんとも弱々しく、儚げに響いてくる。カイルとホイットニーというゴースト同士の、そして、コルトンとカイルという世界をまたぐ者たちの友情を示唆するような歌詞も、実に感動的だ。
ここでは何よりも、映画の冒頭では人間同士が、後の場面ではゴースト同士がこの曲を共に聴くという構成の見事さにこそ注目したい。此岸の人間は、彼岸の存在とかつてのようにやり取りをすることは当然ながら叶わないが、そのあわいを跨ぐ徴は、そこかしこにあるのだ。カイルが描き残した「MADEN」のグラフィティを眺め、ホイットニーが川べりに残していった日記帳を閲し、思い出の家に再び現れた黒猫と戯れることがこれからも可能なように、コルトンにもカイルも、ホイットニーもロジャー・ミラーの優しい歌声にいつだって耳を傾けることができるのだから。あの“The Final Countdown”を経て旅立ってしまったゴーストたちが既に彼岸に安息を見つけてしまったのだとしても、反面で、ある曲や黒猫たちは、こちらとあちらの間を、永遠に漂い続けている――。
本作『メイデン』の音楽は、此岸と彼岸を越境する働きを持った、つまり「ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわす」弱さを湛えた存在として配置されている。そしてまた、そもそも私達の多くにとって音楽とは、はじめからそのようなポテンシャルを秘めた「弱き」存在ではなかったか。特定の音楽が黄昏の風景と結びついたときに発揮するそのような根源的な誘引力は、いかにもフラジャイルな音像をまとったアンビエントだとしても、(一見「強そう」な)ハードロックの名曲だとしても、フォルム上の差異とは無関係に、いくらでも豊かに引き出されうる。音楽を聴きながら、過去に一度でもトワイライトの「まぎれ」に誘われた経験を持つ人ならば、きっと首肯してくれるだろう。
『メイデン』
2025年4月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
監督・脚本:グラハム・フォイ
出演:ジャクソン・スルイター、マルセル・T・ヒメネス、ヘイリー・ネス、カレブ・ブラウ、シエナ・イー
配給:クレプスキュール フィルム
https://maiden.crepuscule-films.com/