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三次元的な可能性を提示した「カウンターへのカウンター」
だからこそ、ディランを自分たちの同胞と信じ、ボヘミアニズム的な自由よりも公正を、ラジカルな革新よりも秩序ある革新を、肉体的快楽よりも理知を、「個」よりも連帯に重きを置くフォークの門番たちは、ディランのエレクトリック化を、フォークの社会的な価値の空洞化、大衆的な芸能への堕落として指弾せざるをえなかった。
かといってディランはなにも、彼らの信念に真っ向から対決し、これ見よがしにそれを粉砕してみせようとしたわけではないだろう。むしろ彼は、上に挙げたような様々な対立項の外部へと歩み出ようとし、結果として、それらの対立が止揚された末の、輝かしくも茨に包まれた自由の姿を浮かび上がらせることになった。そして、そのためにこそ、エレクトリックギターとベース、ドラムス、自らの歌声とハーモニカのサウンドを電気的に増幅した割れんばかりの(件の『ニューポートフォークフェスティバル』の演奏では、実際に音が割れていたという証言も多数ある)大音量が象徴的な意味を持ったのだ。

ディランがしばしば言うように、サウンドこそが重要なのだ。フォークはときに、言葉を言葉としてしか受け取らない(ように仕向ける)。あの場で奏でられたサウンドは、いわばカウンターへのカウンターだった。カウンターへのカウンターを通じて、ディランは左右の座標軸を転倒させ、その転倒から新たに三次元的な可能性を提示してみせた。その可能性のことを、我々は今も便宜的に「ロック」と呼んでいるのに違いない(※)。
疾走するリズムと言葉の濁流は、観客はもちろん、ディラン本人にも止められはしない。その爽快と蠱惑。彼は、かつてフォークミュージックに宿る最も奥深い力を借りながらそうしてきたように、エレクトリックギターの爆発的な推進力を借りて、自らのアイデンティティを次々と多数化し、時代の奥の方まで、遠くの方まで逃げ去っていく。追憶のハイウェイを、バイクを駆り、名もなき者として行く。ウディから継承された「自由」の徴を手に行き着く先は、廃墟の街か。エデンの門か。けれどきっと、「僕はそこにはいない」。
※本作に描かれた「エレクトリック革命」とその騒動の様子からは、アメリカ社会において本来「自由」とは、常に公共性という茨に囲まれたものであるという教訓を引き出すこともできる。ディランが勝ち取った自由と「ロック」が、他の者達に渡った後の時代においてどのように変質し、自らの定義を侵食するようになったのかを知るには、1970年代以降のディランの歩みと、同時代のシーンや社会の変遷を題材とした映画がもう1本作られるのがいいかもしれない。