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名称を与えられることへの複雑な思い
オカヤ:「一人暮らしで自炊する」ことの受け取られ方が、すごく変わった気がします。10年前だと「家庭的なんですね」みたいに言われたりとか、花嫁修行文脈に受け取られることもありましたし。
柴崎:はいはい。「いい奥さんになりそう」文脈、あるいは「ていねいな暮らし」文脈。
オカヤ:そうそう。「ていねいな暮らし」みたいに思われるのは、いまでもちょっとあります。だから、「別にUber Eatsとかも頼みますよ」「カップ麺も食べますよ」って言わないと、なんかバランスが取れない気がしてしまいます。「普通です!」って。
柴崎:単に自分で作った方が食べたいものが食べれるんで、とかわざわざ説明しないと別のイメージで受け取られてしまう。
オカヤ:そう。「違うんです! ていねいな暮らしじゃないんです!」ってわざわざ言うのも変な話なんですけどね。でもいまマウントを取ることにすごく敏感な世の中だから、「いい気なもんですな」とか、有閑な富裕層みたいに思われても困るので……。
柴崎:それ(言葉で括ることについて)は小説を書いていても難しくて、オカヤさんの『雨がしないこと』も説明する難しさがあるじゃないですか。主人公の雨はアセクシャルという言い方もできるんだけど。
オカヤ:そうそう。アセクシャル、アロマンティックと言うかどうかは悩んだんです。いま恋愛しないだけかもしれないし。
柴崎:他者のありようを「生まれつきアセクシャルなんです」と言えば認める、みたいなのも、おかしいじゃないですか。一般的とされていることや自分と違うことに名前をつけないと納得しない、ただその人がそうであるということを納得しないのはどうなん? という気持ちがずっとあります。
オカヤ:全員を人間扱いしてくれればいいわけですからね。でも、名付けられたことで生きやすくなる人もいる。
柴崎:そうそう。概念や言葉によって、自分でもなるほどと思ったり捉えやすくなったり、自分だけじゃないと思えたりもする。言葉によって知ることができたという人もいるだろうから、必要性ももちろんあります。でも、「こういうものだからしょうがない」という説明がないと納得してもらえない世の中もどうなのかなとも思う。あ、そうなんや、でいいのでは? と。
オカヤ:そのときそういう気持ちだっていうことも尊重してよ、と思いますよね。揺れてちゃだめですか? って。
