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大胆さや奔放さが求められてきた女性の表現者
柴崎:ここ数年、1980年代くらいの映画をよく見ているんですけど、その時代の作品って、わりと若い女優さんが脱ぐじゃないですか。
オカヤ:「体当たり演技」と言われてましたよね。
柴崎:そうそう。脱ぐだけじゃなく、あらためて観ると、ストーリー上も対等な関係には思えなかったり今で言う「不同意」なシーンも多かったり。この場面はそういうふうに撮らなくてもいいんじゃないかと思うけど、その当時は、そういう若い女性像が自立した自由な女みたいに言われる面もあって。
オカヤ:演技に向き合っているタイプの人だ、腰掛けじゃないんですよ、みたいな意味を持たされていましたよね。
柴崎:たしかにその女優さんの演技や存在感は素晴らしいんですよ。素晴らしいからいっそう、こういうストーリーや撮り方以外にもあったんじゃないか、って。当時は、映画を作る側やお金を出す側はほぼ男性、一般の職場でも男女の待遇にすごく差があった世の中というのがあって、登場人物としての女性も演じる女優さんも、「性に奔放」や「体当たり演技」が「新しい女」イメージになってたんだなあと。
オカヤ:小説とかでもそうですよね。女の人の表現には、生々しい描写が求められる、みたいな。
柴崎:身体に関わることや、性的に奔放なところを表現すると「女性ならではの」という感じで評価されるみたいなことですよね。先日与謝野晶子の小説を読む機会があって——与謝野晶子が小説を書いていたのは知らなかったんですけど。
オカヤ:私も知らなかったです。
柴崎:短篇をいくつも書いていたんですが、男性の大御所作家からはあまり評価されなかったらしくて。与謝野晶子の短歌やほかの文章に比べたら、確かにずば抜けてすごいという感じではないかもしれないけど、読んだら小説としての試みをしようとしていて面白かったんですよね。与謝野晶子というとやはりその人生と結びついた激しさを感じる作品がまず語られるし、自分自身もそう思っていたところはあったなと。
オカヤ:武田百合子の『富士日記』(1977年)とかを読んでも、そういうことをちょっと思ってしまうようになりました。『富士日記』に描かれる生活じたいは穏やかだし、ごはんもおいしそうだけど、これが出版されて評価されたのは「おもろい女」として男性たちに認められたからなんだよな、みたいなことは意識させられますよね。
柴崎:武田泰淳は武田百合子に何回も中絶させてるじゃないですか。そういうことを知ると、読んでいてもいろいろ考えてしまいますね。
