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夏のパートと冬のパートで音楽の使われ方に違いが
もう少し細かく、どのように本作で音楽が用いられているか見ていきます。
李が脚本家として物語の後景、黒子的な存在に回る前半の夏のパートと、李の存在が前景化する冬のパートでは、音楽の使われ方が変化していることに気が付きます。


夏パートで音楽が使われるシーンでは、渚(河合優実)ら登場人物たちの記憶の残り香(情感)、記憶の残像(情景)が見え隠れし、観客の感覚も過去に引っ張られるように、ある種ノスタルジックに映像が展開されます。
映画の冒頭、海辺に向かって車を走らすシーンでも、博物館の写真が映されるシーンでも、音楽が流れた瞬間に時間が過去に向かって逆走していくような不思議な感覚があります。渚と夏男(高田万作)が海辺を臨む高台で互いの過去、生き方を語り合った先でそれぞれの帰路に着くシーンも同様です。
一方で、冬パートでは旅の風景と溶け込むように、李の心象風景がそのまま立ち上がるように音楽が流れます。

ここでもやはり重要なのは、本作の主体が李である、ということです。
つまり、劇中作という立ち位置にある夏パートでは、旅を思う李の心象風景が登場人物にトレースされるように立ち現れ、冬パートでは実際に物語の主体として旅をする李の心象風景がダイレクトに映し出される——。
こうしたことから、本作の「音楽」の役割はノスタルジーを喚起するトリガーであり、李の「心象風景」であると解釈するわけです。

