電車に揺られ、職場に向かう疲れた表情をした女性。その姿から、私たちのそれと変わらない「生活」が、この土地でも営まれていることが伝わってくる。インド・ムンバイと、日本とは隔たった土地にも関わらず、だ。そうした人々のささいな日常に光をあてた映画『私たちが光と想うすべて』は、世界各国で高い評価を獲得。インド作品として初の『カンヌ国際映画祭』で「グランプリ」を受賞した。
今回、本作で監督を務めたパヤル・カパーリヤーにインタビューを実施。インド女性たちが抱える生きづらさや、日常を映し出すことの意義、そしてインド映画の現在などを語ってもらった。
※本記事には映画の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
INDEX
自由な恋愛がまだまだ難しい。インドが抱える政治的な問題
仕事を求めて地方から出稼ぎにやってきた人びとがひしめく商業都市、インド・ムンバイ。故郷を離れた2人の女性プラバ(カニ・クスルティ)とアヌ(ディヴィヤ・プラバ)は、ムンバイの病院で看護師として働いている。親が決めた相手と結婚した真面目なプラバと、恋愛を楽しむ陽気なアヌ。一見すると相反する性格の彼女たちは、同じアパートで身を寄せ合って暮らしている。性格が全く異なる、姉妹のような2人を物語の中心に据えた理由について、本作のパヤル・カパーリヤー監督は以下のように語る。
パヤル:「伝統と現代」など、ムンバイという都市で生活する上でのさまざまな要素の対比を描きたいと思いました。また私自身が、全く知らない人と仕方なく一緒に住むことになり、その人といい友達関係を築くことができた経験があるんです。そういった経験から、ルームメイトになった2人が理解し合っていく今回の脚本を着想しました。

1986年、ムンバイ生まれの映画監督。インド映画テレビ研究所で映画の演出を学ぶ。2015 年に製作した実験的なドキュメンタリーの短編「THE LAST MANGO BEFORE THE MONSOON」が、2018 年『アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭』で「審査員特別賞」受賞。初長編ドキュメンタリー『何も知らない夜』は 2021 年『カンヌ国際映画祭』の監督週間で上映され、ベスト・ドキュメンタリー賞である「ゴールデンアイ賞」を受賞。2023 年には『山形国際映画祭』インターナショナル・コンペティション部門で「ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)」受賞。『私たちが光と想うすべて』は初長編劇映画ながら、『第 77 回カンヌ国際映画祭』で「グランプリ」を受賞し、世界から注目を集める映画監督の一人となった。
ドイツへと出稼ぎに行ったままの夫から音沙汰がなくなったプラバ。同僚の医師マノージ(アジーズ・ネドゥマンガード)から詩をプレゼントされたりと、恋の萌芽に浮き足立つ気持ちがないわけではないようだ。しかし、夜ごと1人の部屋で過ごすプラバの姿には、取り残されてしまった人の抒情が感じられ、慎ましくも侘しい。対してアヌは、恋人との夜の逢瀬に夢中になっている。しかし、相手のシアーズ(リドゥ・ハールーン)がイスラム教徒のため、職場の同僚や家族には公にできない秘密の恋だ。

本作において恋愛や結婚が重要なテーマとして描かれるのは、それらがインドで生きる女性にとって政治的な問題と肉薄しているからだろう。誰と結婚するかが、自らのその後の人生や周囲との関係に大きく作用してきてしまうのだ。親から送られてくるお見合い写真を笑ってかわしながらも、宗教の違いによって本当に愛する人と結ばれるのが難しいことを十分にわかっているアヌの表情には、諦観が浮かぶ。
パヤル:インドの女性にとって、インドの宗教観や階級意識が厳しいものであるかどうかについて、個人的な感覚は映画に描かれている通りです。やはり誰を愛するのかは自由であるべきだし、色々な形があって然るべきだと思います。ただ実のところ、人種や宗教など、自分自身のアイデンティティによって、愛が制限されてしまう厳しい現実があると思います。
最近、インドではますますムスリムに対する嫌悪感、イスラムフォビアが非常に強くなってきており、政治的にもそれが強くなるような先導がなされてるような気がします。なので、そういったイスラムフォビアに対する政治的なメッセージは、この映画において重要な部分だと思っています。

INDEX
日常生活にはさまざまなドラマがある。パヤル監督が派手なフィクション性に頼らない理由
『私たちが光と想うすべて』が白眉であるのは、プラバやアヌ、さらに2人の同僚であるパルヴァティ(チャヤ・カダム)ら、女性たちの連帯を繊細に描き出すにとどまらず、ムンバイをはじめとした街や村そのものの空気感を見事に捉えているからでもある。
オープニングシークエンスでは、名前も明かされないムンバイの人びとの生活の様子が映される。夜の路上にまばらに広がる市場、人で溢れかえった駅のホーム、ガネーシャ祭りの熱狂ーーこのドキュメンタリー映像の背後には、ムンバイの人びとが自らの生活について語ったボイスオーバーが重なり、経済的な成長を続ける街、ムンバイの光と影が浮かび上がる。スコールの時期に撮影されたというムンバイの街の映像は、今にも雨が降り出しそうな湿度を捉えていて、生活する人びとの気怠さが滲み出ているようなのだ。
『私たちが光と想うすべて』はドキュメンタリーシーンから始まり、フィクションに移行するような流れになっているが、このような構成にした意図について、パヤル監督は以下のように語った。
パヤル:構成としては、プラバが病院のカーテンを開けるカットから、フィクションの物語がスタートしていくという形になっています。ドキュメンタリーのシーンでは、ムンバイに住む人びとにたくさんインタビューをしましたし、彼らのリアルな声や視線を追いかけていました。例えばオーケストラの中から、3人のソリストを抜き出してフォーカスしていくように、登場人物たちが、作品のために用意されたフィクションの人間なのか、それともムンバイで生活しているたくさんの市井の人びとのうちの1人なのか、どちらなのかわからないような作りにしたかったんです。
前作の長編ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』は「2021年カンヌ国際映画祭監督週間」で上映され、ベストドキュメンタリー賞にあたる「ゴールデンアイ賞」を受賞するなど、すでにドキュメンタリー作家として高く評価されているパヤル監督。作品のキャラクターたちをまるでムンバイで生きる人びとの中の1人であるように描く、という試みは、彼女だから成せた技なのかもしれない。
例えば、ショッキングな演出や派手な展開に頼ったりすることなく、あくまでささやかな日常の描写を通して、彼女たちの葛藤や背後にある社会を見せようとしたのはなぜだろうか。
パヤル:日常の生活の中に、すでにドラマがたくさんあるからです。交わす言葉、人と人との関係など、日常には色々なドラマがあって、映画を作る人はそういったものを見つめていかなければいけないと思います。また、日常の中から色々な問題の解決法が模索されていくべきなんじゃないでしょうか。そういった日常を描いた映画を観て、自分自身を内省したり、自分の社会における立場がどういうものかを顧みたり、自分の人生をどういう風に見つめていくかを、私も考えていきたいと思っています。

後半にかけて、物語の舞台は海辺の村ラトナギリへと移っていく。人が溢れ、活況だったムンバイの景色とは打って変わり、海、ジャングル、洞窟と、自然が息づくショットの数々。アピチャッポン・ウィーラセタクン(タイ出身の映画監督。代表作に『ブンミおじさんの森』など)作品を彷彿とするような、夢幻的な映像が続く。観る者は、オープニングのドキュメンタリーシーンからは想像もつかない、マジックリアリズムとも言えるような世界に入り込んでいくことになるのだ。
パヤル:真実というのは色々な側面を持っていると思います。私はよく昨晩見た夢から大きな影響を受けるのですが、それも私にとっての真実のひとつなんです。実際に現実世界で起こることだけでなく、物語、夢、記憶、幻想はどれも、私たち人間を形作るひとつの側面だと思います。私たちがどんな人間であるのか、そして人生そのものも、色々な要素が混ざり合ってできるものだと思いますし、映画もそのようであるべきだと思うんです。
