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日常生活にはさまざまなドラマがある。パヤル監督が派手なフィクション性に頼らない理由
『私たちが光と想うすべて』が白眉であるのは、プラバやアヌ、さらに2人の同僚であるパルヴァティ(チャヤ・カダム)ら、女性たちの連帯を繊細に描き出すにとどまらず、ムンバイをはじめとした街や村そのものの空気感を見事に捉えているからでもある。
オープニングシークエンスでは、名前も明かされないムンバイの人びとの生活の様子が映される。夜の路上にまばらに広がる市場、人で溢れかえった駅のホーム、ガネーシャ祭りの熱狂ーーこのドキュメンタリー映像の背後には、ムンバイの人びとが自らの生活について語ったボイスオーバーが重なり、経済的な成長を続ける街、ムンバイの光と影が浮かび上がる。スコールの時期に撮影されたというムンバイの街の映像は、今にも雨が降り出しそうな湿度を捉えていて、生活する人びとの気怠さが滲み出ているようなのだ。
『私たちが光と想うすべて』はドキュメンタリーシーンから始まり、フィクションに移行するような流れになっているが、このような構成にした意図について、パヤル監督は以下のように語った。
パヤル:構成としては、プラバが病院のカーテンを開けるカットから、フィクションの物語がスタートしていくという形になっています。ドキュメンタリーのシーンでは、ムンバイに住む人びとにたくさんインタビューをしましたし、彼らのリアルな声や視線を追いかけていました。例えばオーケストラの中から、3人のソリストを抜き出してフォーカスしていくように、登場人物たちが、作品のために用意されたフィクションの人間なのか、それともムンバイで生活しているたくさんの市井の人びとのうちの1人なのか、どちらなのかわからないような作りにしたかったんです。
前作の長編ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』は「2021年カンヌ国際映画祭監督週間」で上映され、ベストドキュメンタリー賞にあたる「ゴールデンアイ賞」を受賞するなど、すでにドキュメンタリー作家として高く評価されているパヤル監督。作品のキャラクターたちをまるでムンバイで生きる人びとの中の1人であるように描く、という試みは、彼女だから成せた技なのかもしれない。
例えば、ショッキングな演出や派手な展開に頼ったりすることなく、あくまでささやかな日常の描写を通して、彼女たちの葛藤や背後にある社会を見せようとしたのはなぜだろうか。
パヤル:日常の生活の中に、すでにドラマがたくさんあるからです。交わす言葉、人と人との関係など、日常には色々なドラマがあって、映画を作る人はそういったものを見つめていかなければいけないと思います。また、日常の中から色々な問題の解決法が模索されていくべきなんじゃないでしょうか。そういった日常を描いた映画を観て、自分自身を内省したり、自分の社会における立場がどういうものかを顧みたり、自分の人生をどういう風に見つめていくかを、私も考えていきたいと思っています。

後半にかけて、物語の舞台は海辺の村ラトナギリへと移っていく。人が溢れ、活況だったムンバイの景色とは打って変わり、海、ジャングル、洞窟と、自然が息づくショットの数々。アピチャッポン・ウィーラセタクン(タイ出身の映画監督。代表作に『ブンミおじさんの森』など)作品を彷彿とするような、夢幻的な映像が続く。観る者は、オープニングのドキュメンタリーシーンからは想像もつかない、マジックリアリズムとも言えるような世界に入り込んでいくことになるのだ。
パヤル:真実というのは色々な側面を持っていると思います。私はよく昨晩見た夢から大きな影響を受けるのですが、それも私にとっての真実のひとつなんです。実際に現実世界で起こることだけでなく、物語、夢、記憶、幻想はどれも、私たち人間を形作るひとつの側面だと思います。私たちがどんな人間であるのか、そして人生そのものも、色々な要素が混ざり合ってできるものだと思いますし、映画もそのようであるべきだと思うんです。
