映画『木挽町のあだ討ち』は、タイトルが示す通り、ひとつの仇討ちの光景から始まる。仇討ち劇と言えば、本編中にも登場する『仮名手本忠臣蔵』や、『曽我物語』が有名だ。いずれも、主君、もしくは親の仇討ち話であり、「侍の鑑」としての美談とされている。
しかしながら、本作の描くところは、「仇を討ててあっぱれ」というわかりやすい武家目線の物語ではない。本作で描かれているのは、江戸の庶民たちの人情、言い換えれば「粋」の世界である。
また、この仇討ちの成功を不審に思うある人物の登場により、物語はミステリーの様相を呈し始める。本作は「人情時代劇ミステリー」という、言わばぜいたくな作品だ。単なる古色蒼然とした仇討ちものと捉えてスルーしてしまうには、あまりにももったいない。『侍タイムスリッパー』や『SHOGUN 将軍』などヒットが続いている時代劇のさらなる起爆剤にもなり得る本作、時代劇に興味がない層にも、ぜひ観てもらいたい。その理由を、本稿で紐解いていきたいと思う。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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長尾謙杜の「赤」の美しさ
文化七年(1810年)1月16日、江戸・木挽町。『仮名手本忠臣蔵』の千穐楽を終えたばかりの芝居小屋・森田座の前で、その仇討ち劇は起こった。真っ赤な振袖を着て女に化けていた討ち手は、美濃遠山藩の若侍・伊納菊之助(長尾謙杜)。対する仇は、博徒・作兵衛(北村一輝)。菊之助は振袖を脱ぎ捨て、真っ白な死に装束となる。やがて仇を討ち、首級を掲げて勝ち名乗りを上げる。このように書くと、凄惨な絵面を想像することと思う。だが、返り血をいっぱいに浴びた菊之助の姿は、見惚れるほどに美しかったのだ。
なぜ、菊之助がそれほどまでに美しかったのか。直木賞・山本周五郎賞のW受賞を成し遂げた永井紗耶子による原作小説における、森田座の女形・二代目芳澤ほたるの言葉を引用する。
「赤い衣装っていうのは、歌舞伎の女形にとっては特別だよ。『赤姫』って言葉を知っているかい。赤い振袖を着た御姫様役のことさ。(中略)いずれも舞台に出るなりぱっと花が咲いたような佇まいがあって、それでいて切ない愛らしさ」
「雪の夜でね、辺りは白く染まっていて、芝居小屋から漏れてくる明かりに照らされている。その中に赤姫が立っている。その姿がまるで一幅の絵のようでね」
「そうして遂に作兵衛を倒した菊之助さんが、血飛沫を浴びながら振り返った。その手には、血だらけの首級があるじゃないさ。怖かったよ。怖かったけど……やっぱり綺麗だなあと、しみじみと思ったねえ。見目はもちろん、佇まいも生き様も」
永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(2023年 / 新潮社)
ほたるが語る通り、菊之助は、赤が似合う美剣士でなければならない。衣装の赤が。そして、血の赤が。菊之助を演じた長尾謙杜は、原作のほたるがすっかり上げてくれたハードルを、軽々と超えてみせた。

赤い振袖を着て振り返ったときの愛らしさ。菊之助はまだ前髪の、あどけなさの残る若侍だ。演じる長尾謙杜の無垢で純粋な表情が、主に若い女性が着るべき振袖にもよく似合った。
振袖を脱ぎ捨て、白装束へと、娘から剣士への早変わりを見せる。それ自体、歌舞伎の演出のようでもあった。一瞬にして見た目が変わることにより、剣士姿の凛々しさも、より際立つ。なにより、返り血で白装束を真っ赤に染めた姿には、目を逸らせてはいけないような美しさがあった。ほたるが語った通り、そこには、若くとも侍としての生き様が垣間見えるからだ。
