『ズートピア2』が劇場公開中。先に2025年11月26日に公開されたアメリカでは、初週末の5日間の興行収入が5億5600万ドルという、これまでに公開されたアニメ映画史上No.1オープニング記録を達成した。続く日本でも2025年12月5日に公開し、公開3日間の興行収入は18億9100万円を超え、実写も含めた洋画史上No.2の初動となった。米批評サービスRotten Tomatoesでの批評家支持率は93%であり、日本でもFilmarksで5点満点中4.3点に記録という、興行的にも批評的にも大成功のスタートだ。
結論から申し上げると、本作は実に見事な続編だ。前作が好きだった人には「観たかったものが観られるよ」とシンプルにおすすめできるし、楽しいエンタメ性でいっぱいの内容なのでデートでも家族でも大推薦。日本語吹き替え版の新キャストも素晴らしく、特に山田涼介(オオヤマネコの御曹司・パウバート役)と江口のりこ(ポッドキャスト配信者のビーバー・ニブルズ役)の役へのハマりぶりと好演は「ずっと聞いていたい」と思うほどだった。
なお、前作『ズートピア』(2016年)を観ていなくても問題なく楽しめる作りにはなっているが、前作の黒幕とオチが必然的にネタバレされてしまうため、前作を先に観ておくのをおすすめしておく。
以下からは内容に踏み込む形で『ズートピア2』の見どころを記していこう。
※本記事には『ズートピア2』および、前作『ズートピア』の一部内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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「差別と偏見」を見事に描き切った前作の魅力
まずおさらいとして前作の『ズートピア』で素晴らしかったのは「差別と偏見」という大きなテーマを、「気づきと反省」を経て描き切っていることだ。正義感に溢れるウサギの警察官のジュディは、皮肉屋なキツネの詐欺師のニックとバディを組み謎の事件を捜査するのだが、その先でジュディはこれまで気づけなかった自身の差別意識と偏見に気づき、そしてニックを深く傷つけてしまう。
「差別や偏見はダメ」という通り一辺倒の説教に止まらず、「誰もが差別をしたり偏見を抱いてしまうことはある。それを認識してこそできることはある」という、観る側が主体的に学べるメッセージ性が作品に込められている。さらに、黒幕が「差別を煽動して支持を得ようとした者」というのも、世界中にある問題だ。今の日本でも目にする、外国人への憎悪を煽る様にも重なって見える。
その過程はもちろん、最初に「さまざまな動物が暮らす理想郷(ズートピア)の光景で多様性の素晴らしさを示す」こと、最後に「観客の偏見を逆手に取った爆笑のオチを用意する」ことも含めて、完璧な作品だった。
テーマそのものを過不足なく描き切っているため、本来前作の『ズートピア』は続編が必要ないタイプの作品とも言えるし、下手に続編を作ってしまうと「蛇足」または「安易な逆張り」になりかねないと思えるほどだ。
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ヘビのゲイリーが示す「排除」の問題
しかし、今作の『ズートピア2』では、前作のテーマであった「差別と偏見」と地続きの問題を提示することで、蛇足になってしまう可能性があるという問題を見事にクリアしていた。はっきりと言えば、今回のテーマは「分断と排除」に対する抵抗のメッセージだ。
今回の物語の発端は「ズートピアにいないはずのヘビが現れたこと」であり、その先で「爬虫類たちがズートピアから排除された理由を知る」というのが象徴的だ。「そういえば前作から多種多様な動物が存在するはずのズートピアにいたのは哺乳類ばかりで、爬虫類がいなかったじゃないか」と、観客もまた「無意識の排除」に気付かされるという、ある種のメタフィクション的な構造がある。

そもそもヘビは種類によっては「毒」を持ち、旧約聖書におけるアダムとイヴの物語では「ヘビにそそのかされて知恵の樹の実を食べた」ばかりか「アダムはイヴに、イヴはヘビに責任転嫁をして言い逃れをした」という描かれ方をしたこともあり、「悪魔の化身」あるいは悪魔そのものと捉えられる固定化したイメージが生まれた。だからこそ、本作で健気なキャラクターとして描かれるゲイリーは、その固定観念を反転させる役割を担っている。
物語としては、ズートピアにはもともと爬虫類が住んでいたが、ある出来事を持って、後から権力を持った哺乳類によって「爬虫類が危険な存在」であるという風潮が広められてしまう。その偏見により、爬虫類は分断されたコミュニティに追いやられてしまったという過去が今作で明かされる。

こうした爬虫類や、ヘビの排除は、爬虫類たちが劇中で暮らしている地域の風土が明らかにラテン系をモチーフにしていることからして、やはりアメリカの開拓史、というよりもヨーロッパ諸国による植民地支配の歴史の反映にも思える。
こうして描かれたシーンは、先住民が次々と惨殺される実際の事件を題材とした映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023年)にも重なって見え、寒い地域からの膨張主義は、ロシア帝国の南下政策にも思えたりと、そうした社会問題を子どもにもわかりやすい寓話として示していることも、本作の大きな意義だろう。
また、字幕版でそのゲイリーを演じるのは、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984年)のキー・ホイ・クァンだ。アジア人であるがゆえに、俳優のキャリアとして長い不遇な時間を過ごしてきたが、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2023年)でアカデミー助演男優賞を受賞した彼をキャスティングしたことも、ゲイリーのキャラはもちろん物語にシンクロしているように思えた。
さらに、前作では主人公の1人であるニックがキツネであることが、やはりテーマである差別と偏見と深く結びついていた。童話ではキツネは「ずる賢い」キャラの象徴として扱われることもあり、ディズニーアニメでも『ピノキオ』(1940年)などでキツネは悪人として描かれていた。前作のニックは劇中で偏見と差別にまつわる悲しい過去を持っていたからこそ、「冷笑的な生き方をする」人物となったことも示されていた。今回のゲイリーも「なぜその行動をするのか」ということを想像すると、より味わい深くなるだろう。

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排除の原因である「分断」と「歴史」。あのホラー映画のパロディの理由は?
その「排除」の原因となる「分断」が生まれる理由がどこにあるのか。それは、悪役に当たるキャラクターのセリフから、痛切なまでに伝わるようになっている。もう少し踏み込んで言えば、「権力側に合わせてしまう」という価値観が分断と排除を加速させているとも言えるし、ある種の同調圧力に迎合してしまう様には、前作から提示されていた「差別と偏見」も確実に絡んでいると再認識できる。
現実の社会でも分断と排除の問題はさらに深刻化している。ただ、この『ズートピア2』では、社会の現状を踏まえた上で「こうあるべきという未来の展望」を単純に描くのではなく、「ズートピアの誕生の秘密」という分断と排除が起きた「原因」から未来の展望を示すというのもクレバーだ。

「今に至る問題」には確実に「歴史」があり、その歴史に「間違いがあれば正しく認識する」ことが必要なのだ。劇中では悪役が、まさにその過去を「わかっている」はずなのに、それでも「分断と排除をする側を選んでしまう」ことも切なく映る。
余談だが、その悪役が終盤で雪に覆われた巨大迷路に逃げ込むのは、とてもわかりやすく『シャイニング』(1980年)のパロディだ。同作は「次第に狂っていく父親」の恐怖を描いたホラー映画であるが、本作では「父親に迎合してしまった息子こそが狂気にまみれてしまう」という、ある種の皮肉的な描写でもあるのだろう。
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パートナーへの向き合い方がミクロな視点での「多様性」につながる
今作でジュディとニックは、指名手配犯のはずだったヘビのゲイリーの切実な事情に気づき、警察官であるにもかかわらず彼に協力するため「逃亡犯」となってしまう。「警察捜査もの」だった前作の特徴を受け継ぎつつも、「逃走劇」だからこそのスリルとサスペンスが付け加わっているし、その切迫した状況だからこそジュディとニックの関係性が「少し進む」のだ。

というのも、物語の序盤にパートナー同士のセラピーでの提言を踏まえたためか、ニックは「皮肉屋でありすぎてしまう」自分を少し反省しており、ジュディはその反対に「生真面目さを少し逸脱した」言動をしている。意識的にせよ無意識的にせよ、お互いに「パートナーに歩み寄る」ような姿勢に、2人の絶妙な関係性を思ってニヤニヤしてしまう。

その上で、ジュディは街の平和という大義というよりも、目の前のゲイリーという困っている人を助けるための行動をするのだが、ニックはその「自分の命よりも困っている人を助ける方が大切」とでも言うようなジュディの猪突猛進ぶりを心配するあまり、彼女の行動そのものを否定する言葉を言ってしまう。このことに限らず、「お互いの価値観が違うこと」は、どんなパートナーにもありうるし、決定的な亀裂にも繋がりかねない。
ただ、本作の物語はジュディとニックが胸に秘めていた思いをお互いに伝え合うという展開を持って、その「パートナー同士の違い」を肯定する。相手を思っての言動も、自分がどう感じているか、どれだけ大切に思っているかということを言葉にして伝え合うから、お互いの考え方や感じ方の違いに気づくことができ、その気づきによってパートナーとしての関係性がより深まっていくのだ。
しかも、それはジュディとニックだけでなく、いろいろなパートナーの形があることも、同じ警察として働く他のキャラクターたちの存在を持ってはっきりと見せるのだ。

前作では「ズートピア」という舞台を通して、種族の違う生き物同士での多様性のあり方を「マクロ」な視点から描いていたが、今作では「パートナーや身近な大切な人」といった「ミクロ」な視点で多様性を描き出している。そのマクロからミクロへの移行が見事で、「大きな理想を掲げてもすぐには実現できないかもしれないけれど、まずは近くにいる誰かを思いやることから始められる」という、誰もが実践できる希望を描いている。
また、この作品の結末は「陰謀を暴けば全部解決」と思えるが、歴史の真実を明るみにしようと、命をかけて立ち向かうジュディたちに対して悪役が捨て台詞として吐いた「誰も君たちのことなんて信じない。何をしたって無駄だ」という言葉に対するジュディの「いいの、ゲイリーのためだから」という返答には、世界をより良くするために事件を解決しようと動いていたはずのジュディが、ゲイリーという個人の気持ちに寄り添う言葉を伝える。
この場面でも「そう簡単には世界は変わらない、だけど身近な大切な人のための行動はできる」ことがちゃんと示されていたと思うのだ。