2025年11月21日(金)より4Kデジタルリマスター版が劇場公開となる映画『落下の王国』。
デザイナー / アートディレクターの石岡瑛子が衣装を手がけたことでも知られる、この壮大で幻想的な自主制作映画は、2008年に日本公開されて以来シネフィルからの熱烈な支持を集め、廃盤となったDVDは中古価格が高騰するなど、約20年が経った現在も人々を魅了し続けている。
社会学者の中井治郎も、本作に魅せられた一人だ。『落下の王国』はなにがそんなに特別なのか。中井にその魅力を論じてもらった。
※本記事には映画の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
INDEX
映画を見たことがない少女の見る夢
とても奇妙で、そして愛おしい。宝物のような映画である。
僕自身、数えきれないほど多くの知人や友人にこの映画を紹介してきた。
ある人は言った──「おかしい。なぜ私は今までこの映画を見ていなかったのか」
ある人は言った──「あの女の子は私だ。まるで私が私を見ているようだった」
そして、ある人はこう言った──「さあ、行きましょう。インドが我々を呼んでいます」
ロマン主義的なエキゾチシズムを思わせる「名邦題」とともに、わが国でもカルト的傑作として知られるようになった、この世界でもっとも美しい映画、『落下の王国』。それは単に優れた作品というだけでなく、少なくない映画ファンにとって、そして僕自身にとって、少し特別な作品である。
物語の舞台は20世紀初頭、映画産業が勃興し始めたばかりのカリフォルニアのある病院。病床の青年が、移民の少女の気を惹くために空想のおとぎ話を語り始める。青年の目的は、自ら歩けない彼の代わりに、少女を手なずけて自殺用の致死量のモルヒネを盗ませることにあった。『千夜一夜物語』のシェヘラザードが命をつなぐために暴虐の王に物語を語り続けたのとは対照的に、彼は自らの命を終わらせるために、たったひとりの小さな聞き手に向かって壮大な叙事詩を語り始める。
そして、実写にこだわり極力CGを排したという驚異の映像美で表現されるのは、死にたいと願う男がベッドで語る物語を聴きながら、8歳の少女が思い描く壮大な冒険の世界である。

インドをはじめ20か国以上でロケが行われた実在の絶景が織りなす神話的光景は、観る者を圧倒する。その唯一無二のイメージは、「映画を見たことがない少女の空想」を映画で表現しようとする実験の産物でもある。「映画を見たことがない少女の空想」を描くならば、少女の生きる小さな世界の断片を飾り石のように散りばめつつ、まだ見ぬ広い世界の畏怖と驚異と眩しさに満ちていなくてはならない。そして、それを映画の100年の歴史が積み上げてきたクリシェに頼らずに表現しなければならなかった。なぜなら、その目を見張る世界は「映画を見たことがない少女の見る夢」だからである。
こうして、誰も見たことのない奇想の「王国」が誕生した。

INDEX
偏りや限定性こそが、作品と鑑賞者に親密な関係を生む
──「私はこの作品に24年間取り憑かれていた」。
ターセム監督は、本作の実現を夢見続けた自身の半生をこう語る。しかし意外にも、公開当時の興行はそれほど振るわず、大成功とは言い難いものであった。つまり、多くの人がこのおとぎ話の始まりを見逃してしまったのである。だが、そのことこそがこの映画をより特別なものにしたのかもしれない。
商業的に苦戦した公開から20年近くが経とうとする今、この作品は忘れ去られるどころか、むしろ時の経過とともに、劇場の暗がりを愛する人々のあいだで幻の映画として語り継がれてきた。二度と忘れられない白昼夢として、まるでとっておきの秘密を打ち明けるように、お互いの鑑賞体験を囁き合いながら、人々は本作の伝説を大切に育ててきたのである。

この点にこそ、21世紀の映画史における本作の重要性があるといえるだろう。作品としての普遍的価値よりもむしろ、その偏りや限定性こそが、作品と「私」、そして「私たち」との関係において特別に親密な意味をもつ映画であること──これが本作が「カルト的」と呼ばれる所以である。
本作の原点には、監督がヒマラヤの学校で過ごした幼少期に、先生が語ってくれた物語の思い出がある。先生は子どもたち一人ひとりの顔を見ながら、その感想やアイデアを取り入れ、山賊や海賊が活躍するわくわくするような即興の冒険譚を語ってくれたという。その物語は先生だけのものではない。語り手である先生と聞き手である子どもたちが一緒に紡いだ物語であった。
本作のメッセージの核心も、まさにその物語を介した語り手と聞き手の心の交流にある。
