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福地桃子と寛一郎が語る、他者との向き合い方。「分からない」からはじまる理解

2025.11.27

『そこにきみはいて』

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理解できないものへ近づく方法。他者との距離

ー演じるうえで、それぞれどんな風に役に近づいていきましたか?

福地:役に対しても、人と人が近づいていくときと近い感覚でアプローチをしていて、理解できない部分があっても、「じゃあ、どうしてこうなったんだろう」と考えると、違った見え方をしてくる部分がありました。たとえば、健流の趣味であっただろうランニングに、どうしてなのか香里もついて行ってみようとしたり、健流がいなくなったあとも一人で走ってみたりするシーンがありますが、ただ走っているだけではなくて、2人がどうやって関係性を育んでいったのかが想像できる役割を持ったシーンだと思うんです。演じる中でそういうことを計算して役をつくっていたわけではないんですけど、振り返って映像を見たときに、わかり合えないところをわかろうとする姿に説得力があったらいいなと思いました。

ー香里にとって、走ることが健流を知ろうとするための手立ての1つであったように、福地さんにとっても、一つひとつのアクションを行っていくこと自体が、役に近づいていく術でもあったのでしょうか?

福地:そう思います。あと、自分が人から言われることと、自分が香里に対して感じる印象に、似ている部分があるなと感じました。それは、香里が大切にしている人に対して、根気強くコミュニケーションを取ろうとするところ。相手のために自分のエネルギーを使うことは、自分の生きる力にも繋がっているんだろうなと思います。

今回は物語ができる前に、監督の⽵⾺さんが、私と対話をする中で香里という役を膨らませてくださったんです。最初に脚本を読んだ段階では、当て書きということを強く意識して読んだわけではなかったのですが、振り返ってみると、自分の感覚と重なる部分がある事に気がつきました。自分の一部が香里にあるからこそ、この物語が進んでいくようにも感じました。

ー寛一郎さんはいかがですか?

寛一郎:僕は役を一からつくることはなくて、自分の中にあるものから出していくというやり方しかできないし、やったことがないんです。健流についても、弁護士で、どこの大学を卒業していて、という役の外側の情報はあるけれど、中身の部分は自分にあるものからできるだけ広げていく作業をしました。ただ、僕は死んでいないし、健流とはセクシュアリティも違います。だから⽵⾺さんや中川さんとも話をして、健流について丁寧に考えていきました。

ー自分とは異なるセクシュアリティを持つ役柄を演じる上で、どのように理解を深めましたか?

寛一郎:健流に近いセクシュアリティを持った人に話を聞きました。わかっていたことではあるんですけど、セクシュアリティに関わらず、何かを好きになったり、何かを嫌だと思ったりする感覚は変わらなくて、軋轢が起きるのは、そこに社会や第三者が入ってくるからなんです。そこは前提として踏まえつつ、健流が持っている人との距離感について僕が感じたのは、香里と慎吾には初めから生というものが中心にあったとしたら、健流は存在しているレイヤーが違うということで、その疎外感みたいなものは自分としてもわかるところがありました。

ー健流が感じていた疎外感のようなものに、どんな風に共感されたのでしょうか?

寛一郎:僕、健流と同じで人にまったく相談しないんですよ。健流はランニングをしていたけど、僕は歩くのが好きで。歩いているときが一番頭が回るから、考えごとをするときはどこでもいいけど外を歩いて、そこで自分自身で全部片付けるんです。だから、健流が走るのもそういうことなのかなと思っていました。ただ、全部自分で解決できることは楽でもあるけど、誰かに話したいのに話し方がわからないという苦しさも健流にはあったと思うんです。誰かに話せていたら、健流はもっと楽になれたのかもしれません。でも多分健流はそれにトライしてきたんだと思うし、そういう部分は僕にもあると思います。

『そこにきみはいて』場面写真 / ランニングをする健流

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