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音楽のモードの更新と停滞、その後——蓮沼執太が「時代の申し子」たる所以
佐々木:1980年代から2000年代の頭の辺ぐらいまでは、音楽の時代だったと思います。1990年代まではユースカルチャーの中で音楽という趣味の位置が上位にあった。
そのピークが2001年ぐらいだったという感じが、レーベルをやったりライブを企画してた僕の肌感覚としてあって。いつの時代もマニアックな人はずっといるけど、「たしなみ」として、今ならマニアックと思われるような音楽を聴く人の母数はそのあたりから減っていったとは感じてますね。

批評家。1964年、愛知県名古屋市生まれ。ミニシアター勤務を経て、映画・音楽関連媒体への寄稿を開始。1995年、「HEADZ」を立ち上げ、CDリリース、音楽家招聘、コンサート、イベントなどの企画制作、雑誌刊行を手掛ける一方、映画、音楽、文芸、演劇、アート他、諸ジャンルを貫通する批評活動を行う。2001年以降、慶應義塾大学、武蔵野美術大学、東京藝術大学などの非常勤講師を務め、早稲田大学文学学術院客員教授やゲンロン「批評再生塾」主任講師などを歴任。マルチスペース「SCOOL」共同オーナー。現在、映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師、早稲田大学非常勤講師、立教大学兼任講師。著書多数。最新刊は『メイド・イン・ジャパン 日本文化を海外で売る方法』(集英社新書)。
蓮沼:今とまったく違うなと思うのは、インターネットがなかったり、リスナーのコメントがたくさん入ってくる状況ではなかったことで。自分で足を使ってマニアックなものからメジャーなものまで知っていきました。その中でレコード屋さんのバイヤーさんの紹介、批評家が書くレビューなど、とても価値が大きかったです。レコード屋さんが出している冊子、『bounce』とか、WAVEが出してたフリーペーパーをスクラップして保存してましたから。そういう文化の中で新しいものが生まれている感覚は感じてました。
佐々木:でも、その5年後にはデビューしているわけですね。
蓮沼:まあデビューというか、一応1枚目のリリースは2006年でした。
佐々木:割とすぐに作り手に回っていった?
蓮沼:そうでもないですね。当時は渋谷にあったDMRというレコード屋さんで働いたり、音楽をひたすらずっと聴いてましたね。そういう中で面白いものもその都度発見があるし、聴き方がだんだん変わってくる感じだったかな。
あとは「新しいものがすべてというわけではない」とも感じていました。それこそ大学生のころは時間があったので、昔の音楽を聴けるチャンスだったし、音楽のより深いところを知っていく行為の真っ只中で。例えばFenneszで言うと、『Endless Summer』の次の『Venice』(2004年)はさらに深い感じになっていて、発展というより、成熟していく感覚もありました。

蓮沼:僕にとってはそういうことって音楽シーンどうこうではなく「面白ければいい」って感じで、自分の耳で良さを見つけていくみたいな感じで楽しんでいました。そういえば佐々木さんがHEADZでFenneszのライブ盤(2003年『Live in Japan』)を出したじゃないですか。あれはちぎれるぐらい聴いてましたよ。
佐々木:あれは売れたね。セールス的には2000年代前半ぐらいまでは1990年代の盛り上がりの残響がまだある感じだったと思う。今は売れないものと売れるものの差が極端に激しくなっているけど、昔は話題になれば平均してまあまあ売れてた。蓮沼君がデビューしてからの20年って音楽業界は激動だった。東京の人だし、音楽が趣味の王様だった時代に10代を過ごしたわけで、ある種「時代の申し子」だなと改めて思いますよ。
要するに2000年代以降は「もう新しいものはない」というポストモダン的な状況で、様式はほぼ全部出揃っていて、しかもちょっと勉強すれば使用可能で、だからこそみんな横並びになってしまうんですね。その上で、ただ使うってだけではもう誰も新しいモードを認めてくれないし、面白いと思ってもらえない。
そんな状況の中で、さまざまな要素をどう足したり、掛け合わせたりかっていうセンスの時代に突入したと思っていて。使えるものをどうプロセシングしてアウトプットするかが一番重要なことだと考えると、蓮沼執太の20年を振り返ることで音楽のモードの更新、停止以後の20年を考えることにもなるんだと思う。
