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『もののけ姫』は『ナウシカ2』である。宮崎駿が描き続けた、苦界を生き抜く「意志」

2025.10.23

#MOVIE

© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

混乱の時代の後も、人の営みは次の時代に必ず続くことを示唆した『もののけ姫』は、今観客にどのように届くだろうか? ライター・島貫泰介が、本作について改めて論じる。

『もののけ姫』は『風の谷のナウシカ2』である

『もののけ姫』は『風の谷のナウシカ2』である。少なくとも12年をかけて描かれた漫画版ナウシカの変奏として『もののけ姫』はつくられた、そう思っている。

共通点はもちろん多い。人間を寄せ付けないシシ神の森(杜)は腐海に近く、荒ぶる自然を御そうと試みるタタラ場はトルメキア王国や土鬼諸侯国であり、それら自然と人間社会を行き来して奔走するアシタカ(と、もののけ姫=サン)はナウシカ的な存在である。近代的合理性を身につけた勇壮なエボシ御前はもちろんトルメキアの皇女・クシャナであるし、エボシと有力大名や地侍たちの対立は『ナウシカ』での人間勢力間の小競り合いの構図だ。「師匠連」なる謎の組織の構成員でありながらアシタカとエボシの双方に通じるジコ坊は、ナウシカの精神的指導者である旅の剣士ユパやクシャナの副官であるクロトワ、さらに土鬼諸侯国の僧侶・チヤルカなどの要素を複合させたトリックスター的な人物である。

© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

よく知られるように映画版ナウシカは、漫画版の設定を部分的に改変し、全7巻におよぶ単行本の2巻目途中までを描いた。巨神兵の幼体(胚)を積んだトルメキア輸送機が風の谷に墜落し、そのことによって故郷が王蟲の群れによって壊滅するかもしれない危機は、ナウシカが仲介する自然と人間の融和によって希望にあふれたエンディングに着地する。漫画版ではさらにその後が描かれ、いずれ人間のために自然修復していくと思われた自然環境は人間の楽観的な予測をあっけなく裏切る(長いあいだ腐海と共に生きてきた未来の人間は、「火の7日間」や「大海嘯」が起こる以前の大気に順応できないからだになっており、やがて再来する清浄な世界では生きていけない)。それでもなお、苦界をもがいて生き抜こうとする「意志」こそが人間の条件であり、ナウシカは「私達の生命は私達のものだ」「私達は血を吐きつつ くり返しくり返し その朝をこえてとぶ鳥だ!!」と絶叫して、人類を合理的に庇護してきた旧社会のシステムを完全破壊するのが漫画版の結末であり、そのラディカルさは、子ども向けの漫画映画の域を出られなかった映画版を自ら批判している。

世界に対する愛憎と抵抗の物語こそ、宮崎駿が本来描きたかった『風の谷のナウシカ』ではあるのだが、しかし、あまりに観念的すぎた結末は「ぐちゃぐちゃで、何の喜びもなく、完結できていない」と宮崎自身が苦々しく述懐してもいる。つまり『ナウシカ』は、二度失敗しているのだ。

『風の谷のナウシカ』 / © 1984 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, H

『もののけ姫』と『ナウシカ』を接続するのは、『耳をすませば』である

このようにして『ナウシカ』の漫画版(1994年に完結)と映画版(1984年公開)の緊張関係をふまえるとき、漫画版の完結と同時期に具体的に始動した『もののけ姫』(1997年公開)は、ありえたかもしれない3番目の『ナウシカ』に挑む、リベンジのための映画と位置づけられるように思われる。

© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

驚くべきことに、そのヒントになるのがスタジオジブリの前作『耳をすませば』(1995年公開)である。宮崎の右腕であった近藤喜文が監督を務め、宮崎自身は脚本を手がけた同作は、のちにファンの聖地となる聖蹟桜ヶ丘を舞台とした中学生たちの成長と恋の物語だ。空想的な世界も登場するが、血と破壊にまみれた『もののけ姫』とは似ても似つかない。しかし宮崎はこう述べている。

宮崎:僕は思想的にいえば『耳をすませば』と『もののけ姫』が同じ基盤に立っていると思っているんですが。

ーどこがですか?

宮崎:『耳をすませば』はここまでは言える、ここから先のことについては触れないでおこうと、はっきり線を引いて作っています。そのとき触れなかったものが『もののけ姫』の中にある部分なんです。僕はコンクリートロードの中で暮らしている人間たちが、どういうように生きていくかというときに、別に新しい生き方があるわけじゃない、クラシックな生き方しかないと思っていますので、そういう生き方でいいんだという指摘をし、そういう生き方をする人にエールを送りたかったのです。

(宮崎駿『折り返し点: 1997〜2008』所収、「森の持つ根源的な力は人間の心の中にも生きている 『もののけ姫』の演出を語る」より)

ここで宮崎が「触れないでおこう」としたのは、『耳をすませば』の主人公である月島雫と天沢聖司を待ち受けるこの先の現実である。同作のラストシーンは、久しぶりに再会したふたりが夜明けの街を丘から見下ろすシーンだ。そして唐突に、あろうことか聖司は雫に「いつか俺と結婚してくれ」と告白する。それは青春を生きる若者たちの勢いと思い込みによるものであって、まっすぐな結婚のビジョンはまだ何者でもない子どもたちだからこそ100%信じることのできる純朴な願いである。しかし2人を待ち受けているのは、清と濁を飲み込み、自分とは相容れない価値観も引き受けなければ生き抜くことのできない大人の世界。その作り手である宮崎たち大人は「見下ろしている町の中に何が待ち受けているかも十分わかって」そのシーンを描いているのだ。

『耳をすませば』のラストシーン / © 1995 Aoi Hiiragi, Shueisha/Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NH

近代化の負の部分を背負わされた「よそもの」たちの存在

急激に変化する社会のなかでもがくアシタカとサンは、室町時代中期という混乱の時代に置き換えられた雫と聖司の、その後の姿かもしれない。

『もののけ姫』冒頭で、アシタカはタタリ神の呪いを受けて、ユートピア的な隠れ里から追放される。アシタカは持ち前の聡明さと超常的な呪いを力として生き抜いていくが、一般社会には決して馴染むことのない「よそもの」でしかない。だからこそ彼は自然と人間の世界の両方にアクセスする資格を持つが、直接的な介入はほとんどできない。エボシ御前やジコ坊たちが目論むシシ神退治を防げなかったようにすべてが手遅れであり、しかしデイダラボッチ化して暴れるシシ神に命がけで首を返すという、人間の罪業=穢れを精算する役割だけが不条理に課せられる。

© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

正確に言えば、アシタカとほとんど同一化して描かれるサンだけでなく、ジコ坊たちも穢れを負わされる。かれらもまた社会の外にいる「よそもの」だからだが、考えてみれば『もののけ姫』の主要な登場人物たちは、タタラ者と呼ばれる製鉄集団、白拍子、孤児、流れ者ばかりで、「日本」の歴史の表舞台に姿を見せない人々だ。かれらは未来の可能性に溢れた雫や聖司よりも過酷な、相対的に未成熟であることを強いられたまま社会に放り出された人々であり、そんな人々が近代化の負の部分を一身に背負わされているのが『もののけ姫』だ。

タタラ者と一緒にたたらを踏むアシタカ / © 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

この構図は未来の終末世界を流浪する『風の谷のナウシカ』そのものではあるのだが、世界の秘密に迫ろうとする壮大な『ナウシカ』と比べると、より小さく、より具体的である。そして室町中期という過去を舞台とすることで、混乱きわまる時代 / 社会であっても、人の営みは次の時代に必ず続いていくのだ、という希望を約束している。漫画版ナウシカが迂闊に触れてしまった人間の歴史の終わりの手前にあえて留まり、そこで「生きろ。」と観客に訴える『もののけ姫』には、地に足のついた厳しさと優しさが内在している。当初は3時間半を超える内容だったという『もののけ姫』には娯楽作としての歯切れの悪さもあるが、人間が持つ「迷い」に向き合う誠実さがある。

© 1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, ND

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